ブログ「いらけれ」

お正月なんて新幹線みたいで、こうして一年もあっという間に終わる。
新しいパソコンを買うのは我慢できている。しかし、どうせ使わないからと10万円していたクレジットカードの限度額を20万円に上げてしまった。僕の中で、何かが着々と進んでいる。着々と悪い方向に進み続けている世界情勢について詳しくなりたい。なったところで虚しいだけかもしれないけれど。
昨日の日記を書いて、自分の奇文書きとしての才能はすごいと思った。更新ボタンを押した時、胸に達成感がこみ上げた。毎日書き続けていると稀に訪れるそれは神様からのご褒美みたいに素晴らしい瞬間。でも芽キャベツって、持っている"美味しそうさ"の雰囲気に比べると、実際はそんなに美味しくないよね。「半熟卵のおいしさピークは、とろっと黄身が出てきた時だ」というのは、前にも書いた。あとチーズについては、伸びている/伸ばしている時が一番おいしいと思っている。芽キャベツは、食材として置いてある時がそうかもしれないと思った。
歌が上手いっていうのは、どういうことなんだぜっていつも疑問だ。HALCALIとか、歌(?)ぜったい上手じゃないけど最高だし。ユーチューブに違法アップロードされたMVを見ながら、あの気だるい脱力のモードは、日常に取り込んでいきたいなあと思う。英語のコメントがたくさん書き込まれている。何かのきっかけで、発見されたのだろう。そういうことは時々起こっているから、「Plastic Love」とか。時代が違えば、もっとお金になっていたのかもしれないね。僕には関係のない話だけど。
腕時計の遊環(美しい日本語!)が壊れたので、100円ショップを回った(あるって書いているサイトがあったから!)が見つからず、アマゾンで購入するついでに、商品代金の合計が2000円を超えると送料が無料になる何か(結構あるんだなあこれが!)を買う。具体的に言えば、カナル式の有線イヤホン(使っているのが壊れかけ!)と、花粉症の薬(憂鬱な季節の前の安い内に!)と、マスク(ライガー引退!の方ではなくて、口裂け女がしてる方!)を買う。暮らしの質向上は簡単で助かる。心を病まないために重要だから。
人の死を悼まないインターネットなんて、消えてなくなってしまえ。


Moment Joon – TENO HIRA

いかにして連帯のムードを作っていくか、そんなことは本当に可能なのか?という問いのなかで、少しずつ声を、いや、手を上げていくしかないのだろう。

ブログ「いらけれ」

革命の草の根運動。そんなものはない。世界は劇的にしか変わらない/劇的には変わらない。笑いながら革命が成功するものか。そんなことを考えていた年始。笑いで埋め尽くされる気味の悪い世界。彼らは激怒しなければならなかった。代わりに上げられた口角とその顔は、誰かには向けられなかった。笑いは、笑える人間と笑えない人間の境目を生み出す装置ですらあった。
私たちの未来は、どのようになっていますか。例えば、2120年。私たちは教育されたから、彼らの笑顔が醜悪なものに見える、「人種差別のジョークで笑うなんて、まあ」。野蛮な人々を見るような私たちも野蛮に見えているのだろう。あからさまなセクハラはなくなったけれど、ひと昔前のタモリは女優が座る椅子に手を置いていた(昔の「タモリ俱楽部」をユーチューブで見た)。「罰ゲームで笑うなんて、まあ」と、私たちが言う日がくるのだろうか(ヒップホップやラップバトルではなく、罰ゲームがいけないのではないかと思った)。あるいはドッキリ。盗撮に盗聴、同意のない笑いだ。同意のない笑いは、ハラスメントか。遠いか近いか、誰も笑わなくなる日が来るのか、来ないのか。

それから僕は笑わなくなった。薄曇りの心でそこにいた。日々の暮らしの表面は取り繕うことができるけれど、内実は大きく変わってしまった。小雨の墓地には、犬のふんを片付けるように促す看板があって、「ここは故人の眠る場所です」と書いてある。"眠る"は、今は比喩の響きだけれど、土葬が主流だった頃は、あるいは今でも土葬を行う地域であれば、"眠る"という言葉に中身が充填されるというか、実感のある言葉なのかもしれないと思った。そこで眠っていると思えることは、喜びなのか安心なのか、どのような感覚をもたらすのかまでは分からなかった。僕には眠っているように見えた人も、今では骨だけが残っている。
それから家に帰った。身体と意識があれば、家に帰ることができる。否応なしに外套を厚くさせる季節だ。濡れたそれを、温かい風を吹かせる機械の下に吊るして、右胸に苗字の入った青い服のファスナーを上げた。水出しの麦茶を取りに行ったキッチンで、芽キャベツを見つけた僕は泣いた。生きていく上において、それは必要ではなかった。しかし、こうした生活の彩りこそが僕たちの日常に、本当に必要なものだった。そうして無駄を取り入れることは、前進への決意だった。

世界のどこかでは喜びに溢れ
それは本当かい
それは本当かい


GRAPEVINE-また始まるために

ブログ「いらけれ」

昨日書いたイベントで休憩がなかったときのために、会場の手前のダイソーに入って、チョコとグミを買ったんだけど、休憩があったから余った。いっぱい。
チョコは会場で半分食べて、帰ってきてから半分の半分を食べて、次の日に食べ切った。買ったのは不二家の「ルック」で、4つの味が入っているやつ。久しぶりに食べた気がする。子どもの頃は、たまに買ってもらえる「ルック」がとても嬉しかった。甘いチョコのなかに、酸っぱい味や香ばしい味が入っているそれを、くじ引きのようにして食べた。今のやつは、味ごとに表面の絵柄が違っていたけれど、あの頃もそうだったっけ。忘れてしまったけれど、とにかく適当に、噛んで初めて何か分かるのが好きだった。
会場で食べなかったグミは「フェットチーネグミ」のコーラ味だ。ブルボンの商品だなんて、こうやって日記に書くためにパッケージを見るまで知らなかった。少しだけ酸っぱくて、結構硬い。満腹感が得られそうな気がして、小腹を満たしたい時には必ずこれを選んでしまう。はむはむしている内に、5歳の頃のことを思い出した。

その僕は京川君ちにいる。京川君に兄弟はいないのに、家は広い一戸建てだ。部屋は二階にあったが、一階のリビングの襖は閉まって大人の目が届かないという事情により、僕たちは階段に腰掛けていた。京川君と僕は親友だった。幼稚園児だった僕らはよく遊んでいたし、小学校に上がって、クラスが別になった後も交流は続いていたのだが、2年生になってすぐ、僕が転校してしまってからというもの、めっきり会わなくなってしまうのだけれど、そんな未来を、その僕は知らなかった。
僕たちの関係において僕は、あらゆることを教わる側だった。例えば、マヨネーズを塗ったパンの美味しさとか。まあ、これは彼のお母さんがおやつ代わりに出してくれたものだから、彼に教わったわけではなかったのだが。それでグミ、いやガムだ。噛むことでつながっているから良いだろう。手のひらに収まるほど小さな白い箱には、オレンジの絵が描かれていて、丸いガムが入っていて、一つ上の段から差し出された。コロコロとしたそれを、口に含んだ。京川君は言った、「ガムを飲んだら、うんこが出なくなるらしい」。間違って飲み込んでしまうかもしれないのに、そんなものを噛んだりするものだろうか。それから彼は言った、「本当か、確かめよう」。それが本当だった場合、とても危険なのだから、確かめない方がいいのではないだろうか。しかし、してみることにした。唾と一緒に、ぐっと飲み込んで喉を通っていった。(死んじゃうかもしれない)と思った。けれど、死に近づいてるかもしれないと思うことには、奇妙な高揚感があった。小さな冒険の一歩だった。言うまでもないことだが、ガムを飲んでも死ななかった。だから、この文章が書かれている。

ブログ「いらけれ」

これが備忘録ならば、それを貫き通すのならば、本当の気持ちとその動きを書き残さなければならないと思っている。だから書くけれど、僕はもう、書かなくていいと思っている。

この前の土曜日には、SCOOL「(J)POP2020」に行ってきた。三鷹駅に降りたのは初めてだった。興味深い街だった。複雑な。SCOOLも初めてだった。初めての場所で緊張したけれど、イベントが面白かったし、三鷹は新宿、渋谷とかよりも近い、思っていたよりも近いということが分かったので、また行きたいと思った。今度は、三鷹の街をゆっくり回りたいとも思った。
イベントは7時間あった。しかも、あの出演者で2500円という破格の安値だった。実際に、かなりお得なイベントだったと思う。7時間があっという間だった。しかし、やはり疲れていたようで、家に帰ってから、身体がバキバキであることに気が付いた。
途中の休憩では、時間がなかったこともあって目に付いた日高屋に入り、とんこつラーメンと焼き鳥丼のセットを食べた。700円と安かったが結構おいしかった。店員さんは皆、アジア系の外国人だった。
佐々木敦さんがツイッターで明かしているけれど、TBSラジオの長谷川プロデューサーも客席に座っていた。しかも近かった。休憩中には、その席で矢野利裕さんと話していてドキドキした。佐々木さんもそうだけれど、僕の中に思い入れがありすぎる。普通に、「ラジオ聞いてます」とか「本読みました」って言えたらいいのに。
さらに、あの長谷川白紙さんもいらっしゃっていた。というか、隣の隣の席だった。会場までの道中、録音していたNHK-FM「音楽ガハハ」を聞いていて、その中で丁度やついいちろうさんが紹介、おすすめしていたからビビった。一生の自慢になりそうだ。
イベントの内容に触れないのは、もったいぶっているからではなくて、まとめる能力がないから。「J」なるものが何なのか、それがただの「POP」ではないということが伝える「外」の存在と、しかし、「内と外」という分裂の無効化が進む社会において、だから、あえてもう一度「J」なのだという素朴な揺り返しのなかで、欧米という「外」ではない、別の「外」から考えてみると、新たな発見があるのかなと思った。

自分では大したことは書けないけれど、面白いものを面白いと思うことはできるし、それを面白がっているのが一番幸せなのではないだろうか。客席の幸福。あと、書かないからと言って、考えないというわけではないのだから、考える楽しさは変わらない。批評家にはなれなかったとしても、批評を楽しむ観客にはなれた、それでよかったじゃないか。今はそういう気分です。