ハンカチ落としってなんじゃ、あの遊び。何であんなに楽しかったんじゃ。
どこかの道に僕はいて、そこにマンションというアパートがあって、前には車二台が通れる程度のスペースがある。スペースはどこにでもあり、どこもかしこも駐車場である。風に丸まった草が飛ばされていて、簡素な屋根の下で、丸いテーブルを囲んだ三人の男がトランプをしている。新築住宅の一階と二階を万国旗が結んでいる。風にはためいているのは、鯉のぼりも同じだ。月には兎。土には土竜と、節分の豆。ついでにクリスマスのイルミネーションも光っている。僕は、その奥に目を向ける。アスファルトの先に滑り台がある。近づいて分かるのは、台の終わりから砂場までの距離の長さだ。想像の僕が怪我をした。尻をさすりながら、隣の遊具についての説明を試みる。硬そうなコンクリートに四本の鉄の棒が刺さって伸びて、先が中心に集まっている。その下に、大きな鉄のゆりかごがぶら下がっていて、真ん中に木で作られた座席が付いている。錆びていて壊れそう。これは、いつまでここにあるのだろう。
小説について考えるなかで、目の前にあった柴崎友香『わたしがいなかった街で』を開いてみた。歌ってみた、踊ってみた。主人公が買い物をする様子が描写されていた(その後、仕事の同僚と鉢合わせしていた)。
もし、この小説にテーマを見出すのならば、それには関係のない場面だ。あらすじには残らない部分だ。じゃあいらないのか、そんなことはないはずだけど、言い切る自信はない。すべてのカットに意味のある映画が、果たして面白いのか、という問い。
そもそも小説は何のためにあるのだろう、それが読んだ人に影響を与えるためにあるのだとしたら、自己啓発書が売れる理由が分かるというものだ。
小説を考える、小説を考えるのではなく、小説が考えるのだとしたら、それは少しだけ面白いのかもしれないと思った。『ジョーカー』がジョーカーについての映画ではなく、『ジョーカー』それ自体がジョーカーだ、みたいな。日記もそう。考えたことを書くのではなく、書くことが考えている。日々について書くのではなく、書いたことが日々になる。
相対主義に侵されて、善いことと悪いことの区別が無効化されているのだとしたら、それを構築していけよ。言葉にならないのならば、言葉のなかから見つけていく。そのために小説があるのかもしれない。それは校長先生の話みたいに説教臭いものではない、あくまでも日常の実践が作り上げていくものだから、小説は日常を実践している。
言葉が壊れたのに、言いたいことが言えたので、今日は終わりです。