虚しいのは当然の理だろう

「夕飯の残りの鳥の唐揚げを食べながら見るワールドカップ」も、もう終わってしまいましたね。深夜に食べるものって、なぜあんなにも美味しいのでしょう。そりゃ筋トレしてても、痩せないわけだよ。ちゃんと、なかやまきんに君のブログ(アドレス、「なかやまきんに君.com」って!しかし、かなり内容は充実している。文章はあれだけど。)で、正しいトレーニング方法を調べているというのに!
さて、スターが輝けない場面が多かった今大会ですが、日本の中継はスターをフィーチャーしてばかりで、本当にうんざりといったところですが、そんな中でも新たなスターが出てきたりして、大会としては、とても楽しめました。
しかし、戦術的洗練の結果、例えばフランスが、エムバペ、グリーズマン、ポグバといったタレントを擁しながら(ジルーさん……)、攻めるのではなく守るという局面の多かったベルギー戦などを考えると、これからのフットボールの行く末が、スペクタクルがなくなってしまうような気がして、少し不安に思えたりするのでした。
みなさんにとっては、決勝戦も過去の話でしょうが、私にとってはこれからのことです。その感想については、また、明日の私が書いてくれることに期待したいと思います。それでは明日の私、よろしくお願いいたします。

ブログやめようようかと思っていた。文章を書くことに虚しさを覚えるときもあって、この「特別編-対話のボイスメモ#2:ボイスメモを公開する。」で、たくさんのことを、言いたかったことのほとんどを、しゃべってしまったということもあって。(これ、何度聞いても面白いとしか思えないので、人類ならば聞け。)
でも、やっぱり書いて、試しに書いてみて、自分なりに上手く書けたという実感を覚える瞬間があって、それによる内的充実感がすごかったから、やめなくてよかったと思った。それは湧き上がる歓びであり、脳を駆け巡る幸福感だったし、胸がいっぱいになる感動だった。
さて、ここで問題。私が「上手く書けた」と思っている記事はどれでしょーか。聞いてくれたら、答えなくもないですよ?

中学校の同級生のことを思い出そうと思ったけど、例えば、本間さんのことを思い出そうと思ったけど、全然思い出せない。運動会の何かの係で一緒だったことくらいで、あとは会話も、彼女が話しそうなことも、自分が彼女のことをどう思っていたのかすらも思い出せない。嘘を書いてもいいのだろうか。
嘘を書いてもいいのだろうか。本当のことが面白くなかったら、事実を脚色してもいいのだろうか。私小説ならありだろうか、では、エッセイではどうだろうか、このブログではどうだろうか。
だから私は、本間さんの夢を見たことにして、彼女を好きだったことにして、ブログを書き始める。私はすでに、嘘を書いている。


VOOID-『VOOID』

Spotify便利かよー。YouTubeにあったりはするんだけど、紹介するにはオフィシャルじゃないと。
インストも多いアルバムだけど、個人的には「我是空虛號」が好き。選詩集の訳されたタイトルが「俺は「虚しい号」」で、ちょっとおかしみあるけど、訳詞も、迷子の犬が哲学的なことを言っていたりして、不思議に良い。

shell

「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」を見て、久しぶりに真剣にものを見て、頭がぼーっとしていた。マルクス・ガブリエル、ほんと芯からドイツの人で、それが思想の根本なんだな~。あと、斎藤哲也さん映ってたな~。
内容的には、確かにとても真っ当なことを言っているのだろうとは思うのだが、なんだか宗教の教祖みたい……と思うときもあって、それは需要のされ方も含めてなんだけど、うーんと考えこんでしまった。
あと、この一連のシリーズ、中身は好きなんだけど、演出が過剰に思えてしまう。完全に好みの話なのだが。もっとサッパリとした映像が、自分は好きで、そっちの方が伝わるのではないかと思う節があって、でも、自分の文章はサッパリしてなかったりするのがどうもね。
不満はあれど、とはいえ興味深し。再放送されることもあるでしょうから、皆さまもぜひご覧ください。

この前セミの抜け殻を見たときには信じられなかったけど、今日に歩いていたら本当にセミが鳴いていて、その比較的短い命が、入れ代わり立ち代わり夏の声になるところを想像していたら、足元に綺麗な蝶が死んでいて、蟻が登っている。周りに茹でられた赤い海老が落ちていて、それについてはよく分からなかった。
僕の高校時代というのは、知的に障害を持つ子たちと一緒の生活で、だから、あの時代を書くなら、彼らのことも書くだろうと思う。いい思い出も、悪い思い出も、それは当たり前のように。今の小説に、知的障害者の登場人物が普通にいるというパターンが少ないのは、現代の日本において、彼らが排除、差別されている場面が多く、社会に包摂されていないからだろうし、それは本当によくないことだと、笑いながら一人喋っているおばさんとすれ違って思った。

「「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく」
野党の支持率が低いことには、もっとたくさんの理由があるだろう。心性にしたって、弱い方が批判先として安全とみられていることであるとか、勝ち馬に乗りたいであるとか、そういった傾向もあると思う(まあ、これもコミュ力重視的な傾向とつながってるのかもしれないけれど)。ただ、間違いなくコミュ力的なものに縛られている感じはあって、本当にうんざりしたりしているわけで、だから、こういう主張はやっぱ耳心地よく聞こえてしまうってところはある。
もちろん、コミュニケーションとはじゃれ合うことだけではなくて、むしろお互いに意見しあうこと(もちろんそれには批判も含まれる)こそがコミュニケーションなのだということは言っていかなければならないし、SNSにはかえって批判以下の愚痴や難癖が溢れているという現状から、その時代精神を喝破していかなければならないとも思っている。
しかし、自分が野党的な立場の政治家だとして、その精神の傾向を変えていくことを目指すのか、人々に最適化して人気を取るのか、変革と最適化の二兎を追うのか、戦略が難しいだろうなと思った。戦略なんて考えないのならば、もちろん人々の考え方を変えることを目的にすればいいのだけどね。

「対話のボイスメモ#1」あとがき

今日は、先日公開いたしました「特別編-対話のボイスメモ#1:ボイスメモを公開する。」の、放送後記的なものを書きたいと思います。(もちろん、ポッドキャストの宣伝でもあります。)
まだお聞きでない方にはぜひ、これを機会に聞いていただきたいです。

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席について、とりあえず間を持たすために頼んだコーヒーゼリーと、飲み物のコーラのマッチングが微妙だったことを後悔しながら、お相手のとびお氏とポッドキャストについて話していたら、ちょっとずつエンジンが掛かっていった感じ。(コーラは、氷の入ったコップと別に、ビンで出てきてビックリしました。)

『美しい顔』問題について。
話の流れ的に、かなり周辺的なというか、それを批評する人々について語っていましたが、もちろん僕の興味の中心は、実在の人の〈声〉を、フィクションの中に取り込むことの是非です。石原慎太郎の『天才』が、故人を題材としていながら、おとがめなしなのはなぜか、とか考えていくと、表象=代弁の行為の中でも、問題になる、問題を含むものと、そうでないものがあって、難しいですね。僕は、誰かの代弁をするならば、そのまま取り込むのではなくて、自分をその誰かの立場まで追い込んで新しい言葉を書くような、そういう態度でいたいし、そういうものが読みたいなと思います。

現状への不満について。
この「何でこういう本や記事がないの?」的な感じは、荻上チキさんも言っていました(「セッション22 2018年7月13日(金)の番組オープニングトーク」)。面白い人、もの、ことはたくさんあるのに、それがつながっていないのが「もったいない」と思う、これも編集者的に偏った視点なのかもしれませんね。

透明な私→愛→口出し→意識高い系問題について。
結局、何を読んでも、何をやっても、実はその人の振る舞いの「感じの良さ」が問われている面はあって、その属人的なところから離れられないのならば、戦略的に、なるべく育ちの悪さを隠して品よくいるしかないなと思うと同時に、しかし、読み手としては、あまり人に引っ張られず、文章をちゃんと読まないとなあとも思いました。

『HINOMARU』問題について。
愛国VSリベラル的な、ある種のイデオロギー対立に矮小化されていく雰囲気はあって、それは違うかなと。僕はずっと、ライブでの言動も含めて表現として拙いことが嫌だと思っていて、もうちょっと表現として頑張ろうと言いたくて。まあ、矮小化されやすい批判的言説の内実の多様さ(=一様じゃなさ)を示せたことは良かったかなと思います。

次回予告
政治の話にからめて、最近の風潮について
「遊び心論」について
現代の思想・哲学の潮流から、思想的な興味について
バカが芸術をやるべき理由について

実は、この先の方が面白くなっておりますので、お楽しみに!

KPD

「菊地成孔の粋な夜電波」2018年7月14日放送分を聞きました。King & Prince特集。面白かったので、速報的にブログを書いてます。
僕も「え~ジャニーズ~」とか、思ってしまいがち(これについては本当に反省した、自分だって信仰者なのだから)で、キンプリも、その名前しか知らなかったのですが、その魅力が分かった気になれました。ダンススキルの分析や、歌詞の分析によって(もちろん、映像でもチェックしましたよー。確かにダンスすげー)。歌詞分析では、「いつになっても」がやや歌詞の文脈上おかしく、それは次の「いくつ」を準備するためなのだという分析の、「言われてみれば確かに感」がすごくて、白眉だと思いました。
途中の、平和のために必要なのは「異教徒を愛すること」(これは間違いない)、現代の〈主に若い女性の〉出家のような信仰対象への消費、そして、彼女たちの別の信仰を持つ者同士という連帯、という見取り図は、とても興味深いし、もうちょっと考えてみたいテーマです。
とにかく、放談的に飛ぶ思いつきが、一言一句全て聞こえる、かつ、説得的に聞こえる、その語りの音楽性(これ、ラップとかに近いと思う)が、非常に素晴らしかったです。そして、「革命が起きた」とか「歴史が変わる」という証拠の無い言葉を、エビデンス主義的なせせこましさを越えて、確信を持って言い切ることが、強さを持つのですね。好きなものの魅力を伝えたいなと、いつも思いながら色々やっているので、本当にすごいなあと思いました。
皆さまもradikoのタイムシフトで聞かれると良いかと。聞けばあなたも、キンプリが好きになるでしょう。一週間以内なので、お早めに。

粋な夜電波を聞きながら出かけたときは、まだ少し曇っていて暗かったし、その日の昼間の猛烈な暑さは、その予感だけがあった。湿度で張り付いたシャツのポケットにradikoを起動したスマートフォンを入れ、静かに興奮しながら番組を聞いていた僕は、東村山駅前から多摩湖へ向かった。街中には、まるで電線のようにしめ縄が張り巡らされている。おそらく祭りがあるのだろう。放送が終わるころには明るくなって、振り返ると、懸念だった朝日が、とても大きく見えていた。多摩湖からそれを見ることを目的としていたから。ラジオクラウドで、まだ聞いていなかったセッション22の、吃音の特集を選んで、そのころ長い坂道に差し掛かる。息が上がる。吃音の、その身体の制御がままらなくなるという話を聞いて、これからの自分の身体もそうなるんじゃないかと考えてしまう。息が上がる、少しずつ鼓動が速くなるのが分かる、そのことに段々と不安になる。早朝なのに、ウォーキングをする人や、ジョギング中のランナーが結構いる。ガードレールは高くて、切れ目がない。逃げ場がない。とても広い閉所だ。薬は持っているけれど、水を持ってきていないことを後悔する。だが、この道に自販機はない。座る場所もない。何人にも抜かれながら、極めてゆっくりと歩く。
救急車を呼ぶことを考えていたあの恐怖が、うまく伝わっているだろうか。ホラーを書きたいという気持ちは、少ししかないのだが、あの不安を、追体験してもらえているだろうか。こうして、僕が文章を書いているように、この病で死にはしないし、多摩湖から帰るときにはすっかり元気になる。それは重々承知だ、分かっている。しかし、死の予期不安で、想像の中の僕は倒れて、通りすがりの人に助けてもらう。その迷惑をかけるのではないか、ということすらも心配してしまう。コントロールがきかないのだ。
なんとか坂を上りきって、多摩湖に着くと、不安と恐怖と、早朝にプレイする好きな音楽と、美しい景色のせいで、僕はどうにかなったりしない。もう、不安も恐怖も、あったことが疑わしいほどに、あまりに遠くに行ってしまった。何事もなかった顔でベンチに座って、ただ一枚、写真を撮った。


20180715-05:29