ブログ「いらけれ」

LIBRO – 音信 @ りんご音楽祭2015

疲れている時には音楽を聞いていようと思う。それでいろいろ聞いていて、これを聞いたら「今じゃない、と嘘つく自分を見抜く」という言葉が、後ろ向きな言葉ではないと分かった。その前にある言葉は「お前の出番は必ずくる」で、つまり出番は今なのだ。今この瞬間に出番なのに、それを否定する自分を見抜く自分は、必要な勇気を持っている。臆病な私を否定した私には必要な勇気が備わっている。
嘘をついてしまう弱さのイメージに引きずられて、ネガティブな言葉のようにずっと勘違いしていた。生きるとは更新することで、私は保坂和志の 『ハレルヤ』を読んだ。『ハレルヤ』には「生きる歓び」が再録されているが、私は中公文庫の『生きる歓び』を持っていて、ずっと前に読んだときは、とくに感心しなかった。それが、帰りの電車で読んだら過去の印象とは違ってずっと良かった。
なぜ以前とは違って心が激しく動いたのか分からないが、小説の分かり方というのはこれしかないのか?言葉を超えて、あるいは言葉の手前で、頭ではなく全身で理解するようにして分かるしかないのか。
今の私は、本当に蹴り飛ばすべきものを蹴り飛ばすためだけに生きている。だから分かったのか?本当に蹴り飛ばすべきものとは単純な悪ではない、「人間を常態として萎縮させ」るような複雑な悪で、私はだから言葉を使って言葉と闘わなければならないと思っているし、人と人とが関わり合う上手いやり方を探さなければならないと考えている。このように更新された私に、小説が開かれた。

ブログ「いらけれ」

良くないとは思いつつ、コンビニで買った惣菜パンとコーヒーのような、ビタミンの足りないコンビで昼食を済ますことが増えた。歩いて5分のサブウェイでさえ遠い、それほどに暑い。だから道向いのファミマに入った。チルドのデザートの棚は、そこだけ胸のあたりまでしかなく、冷やす機能のない上のところにフィナンシェやワッフルが陳列されている。棚の前には、棚の一番下の列に合わせた、低くて小さな机が置かれ、そこには、きれいな水色のラベルに包まれたペットボトルがたくさん並んでいる。その「伊右衛門カフェ ジャスミンティーラテ」という飲み物をどうしても飲んでみたくなったから、机ではなく冷蔵庫から一本取ってセルフレジへと持っていった。「てりやきチキン&マヨ」と組み合わせた。申し訳程度のタンパク質だ。

パソコンの前に座って、画像付きのメールがダウンロードされるまでの間に振って、蓋を開けて、もう一度振った。それでも底にこびりついた「ティーラテの本体」が、液体のなかに戻っていくことはなかった。一回りさせてみたラベルには、「この裏におみくじあり〼」という文字はあったが、たしかに「よく振ってお飲みください」とは書いてなかった。振っても意味がないということを、作った人は知っていたということだろうか。

画面に気を取られなが口をつけて、「どうして俺は、この味を知っているんだろう」と思った。デジャヴュのように味に覚えがあり、よく思い出すために目を閉じた。似たような色合いの小さな包みを開けると、似たような薄いクリーム色をした、小さな貝が入っていた。「貝の形 のど飴」で検索して、春日井製菓の「のどにスッキリ」という名前だと知った。スッとしないだけで、ほとんど同じ味だった。飴を溶かしてペットボトルに詰めたのかと思った。パンには合わなかったけれど、私は少しだけ嬉しかった。

私の舌に届いたのは、出かける前に手渡された味だった。亡くなった母は、よくこの飴を持っていた。この飴が好きだったのだ、おそらく。生きているときには気づかなかったけれど、私は母に頼っていたのだなあと思う。思い返してみれば、家のなかでは一度も舐めなかった。いつだって、家を出る前に、あるいは出先で、口寂しいときは母に言えば解決した。母が飴を持っていることを知っていて、ついぞ自分で買うことはなかった。このエピソードは私の、母に対する信頼と依存を表しているのだろう。だろう……か。カ。カタカタカタカタ……という音で、私がタイピングしていることに気がついた。いい話のようで、そうでもないようで、やっぱり本当はいい話に気を取られていた。

そこにいた誰も、私が亡き母を思い出して、ジーンとしていたなんて知らない。目の前にいる人や隣にいる人でさえ、何を考えているのか、黙っていれば分からない、いや話していたとしても、本当のところは分からないのだなと思った。つまり、前の席に座る彼女が何を考えているのか分からないのだ。底抜けに空恐ろしくなり、渇いた喉にラテを流し込み、空になったペットボトルの分別ついでに見たおみくじは、小吉だった。

ブログ「いらけれ」

イーユン・リー『黄金の少年、エメラルドの少女』を買ったのはだいぶ前のことで、NHKラジオで「文庫で味わうアメリカ短編」という番組を聞いたからで、番組が放送されたのは2020年のことで、この頃は、2022年の世界に起きるすべてのことを、私たちはまだ知らなかったのだと思うと、過ぎていった時の大きさが理解できてしまい、心が重たくなる。この先も時間は、前進しかしないのだろうか。

番組で取り上げられていたのは「優しさ」という一編で、私はそれを読んだら、会社帰りの電車よりも心が揺れている。人間という存在の本当が、そして、人々の信じている愛や親切や優しさの観念がまったくの間違いであり、幸福は勘違いにすぎないということが、寸分の狂いもなく描かれている。

読んで、文学とか小説と呼ばれる何かが、私のなかで形を変えた。言葉さえあれば、人生や世界のすべてよりも大きいものが書ける。でも、なんでそんなものを書き、そんなものを読むのだろう。読んだところで、幸せは頭のなかにある影で、現実の痛みを忘れるための痛み止めでしかないという、最悪の真実に目覚めるだけだっていうのに。

ブログ「いらけれ」

久しぶりに夢を見た、と目が覚めた。起きる必要がないから眠った。

『チャパーエフと空虚』は”花婿とは、アーノルド・シュワルツェネッガーのことだったのだ”という超面白い一文がある小説で、夢/幻覚が描かれている。

読んでいたからかもしれないが、私は知らないスーパーマーケットにいる。病室のような引き戸があり、その向こうに日用品の棚がある。日用品としか言えないのは、無数の商品が並んでいるからだ。一つ一つが潰れている。私は、それを扉を開けた瞬間に見た。

夢を見て、そこで見たスーパーマーケットなどなく、あるのは私の脳だけだ。それでも、私は私が見た、と言うだろう。私には、その光景が私のなかにあったという実感はなく、私には私が見たという実感がある。

つまり、私が家を出る前に、家の外が私の中にある。スーパーマーケットがあり、スーパーマーケットの店内がある。仮構された都市がある。私は、その虚構に無自覚だ。無意識の構えがある、だからこそ驚くのだ。予想がなければ、予想外はない。

私の夢を作ったのは無意識の私だが、その無意識の私に、私は会いたい。無意識は意識できない、意識できないものを無意識と呼ぶ。だから、無意識の私に会うというのは、叶わない夢だ。