ブログ「いらけれ」

「口づけをした二人には、お互いの顔が見えなかった。」という一文が思い浮かんだが、この先の物語を、僕は用意できそうになかった。これは小説の始まりで、鋼鉄の馬が驟雨の中を駆けていく。文章にするとは、単線にすることである。これは保坂和志が言っていたことか?よく覚えていないがとにかく、目の前ではいくつもの出来事が同時に起こっている、9回2アウト満塁のピンチを招いたピッチャーを見つめるスタンドでは応援をする人々の真ん中でトランペットを吹く応援団員の汗が一つ落ちたが、それ以外にも様々な事象が、さらに、人々の心の内に"いろんな気持ち"が生じている、それを書くということは、無理矢理に文章という一つの流れに押し込めていく作業だ。つまり複数のものを一にするのだから、端々が解れるのも仕方ない、いやむしろ、壊れていなければならない。

めちゃくちゃどうでもいい思い出で、『早稲田文学』の論考の文章が良かった森山至貴氏を調べようとして、「森山」とグーグルに打ち込んだら候補として森山未來の名前が出てきて、中一の習字の時間に、隣に座っていた女の子が下に敷く新聞紙を忘れてしまったというから一枚あげたら、森山未來の記事が掲載されたページで、それを見つけた彼女はファンだったらしく、めちゃくちゃ感謝された。彼女と自分は、それまでに数回行われた席替えで必ず隣になっており、かなり気持ち悪がられていた。しかし、自分が何かをしたわけではなかった。本当にたまたまだった。運命を感じてもよさそうなところだが、すでに自分は別の女の子のことを好きになっていたから、単なる偶然として受け止めたのだった。

シティポップ号に乗り遅れた、うわーん。だからカラオケに行っても、ゼロ年代の売れなかったバンドの曲を歌ってしまうんだね。そんなことより「緩みきってだらしないお正月」とはどのようなものかといえば、一挙放送されていた「古畑任三郎」や「ワカコ酒」を途中から見てしまうようなお正月だ(正確には「古畑任三郎」は年末の放送だったが)。途中から見た「古畑任三郎」でも面白くって、今とは違うベクトルに演技の過剰さがあって、三谷幸喜の脚本も冴えていて、完成度の高いやり取りが展開されていた。あらゆる面で時代は変化しているが、しかし、「変化してしまえ良いのだ」という言説ではなく、例えば、東京学芸大学現代文化研究会の発行する同人誌『F』2014年春号の矢野利裕の論考(が引用する太田省一『紅白歌合戦と日本人」)にあるように、紅白歌合戦が、戦後の時代背景のなかで、男女平等を実現するために企画された(歌でならば、スポーツでは難しい男女の対抗戦ができる!)ということから、考えを始めなければならないのではないだろうか。もちろん、論考の注にあるように、「(男/女という)二項対立に揺さぶりをかけるジェンダー論」まで進まなければならないとしても。