そこそこの満足を覚えたい。炬燵で温まりながら僕は、auのキャンペーンで当たったいちご味のホームランバーを食べ、ピーチ味のストロングゼロを飲みながら、貯まっていたポイントで購入したバルガス=リョサ『都会と犬ども』の冒頭を読んでいた。小説を書いてから、本当に小説の読み方が変わった。ああ、こう書けばいいのかと、毎行毎行に発見がある。小説のピッチ内にはいない、だがスタジアムの観客でもない。ボールボーイのように間近だ。それなりの心地良さに何かが足りないけれど、それでいいじゃない、と僕が言ってみた。反論してみた。賞とか残高のような分かりやすさが欲しい、手ぶらの自信満々はただの強がりにしか見えないから、と。
子どもが泣いている。大人が「泣かないの!」と怒っている。
不満や苦痛の表明は、どのような形でもいい、泣きたいときはまず泣くこと、怒りたければ怒ること、僕はそう教わった。ある面でそれは正しい。苦しんでいる人が、自身の苦しみを正確に言葉で表現できなければ手助けしないという奴は、ただの人でなしだ。そうだろう?
でもそうやって、少ない手段による拙い伝達を認めてしまうのは、結構冷たいことだと思ったんだ。相手を下に見て、成長すると思ってないというか。だからさ、やっぱり誰かの悲しみ/苦しみ/怒りを、そのままの形で受け止めつつも、「泣いたままじゃ分からないでしょ?なぜ泣いているのか話して」って諭す大人も必要だし、暴言や暴力は(基本的に)行使してはいけないと伝えて、そうして相手が変わってくれることに期待する人も、そこに存在していなければならないと思った。
この前来た「小説的思考塾」の先行予約の告知メールに、保坂和志が企画の趣旨として長い文章を書いていて、それは本当に胸が熱くなるものだった。わーってなった。小説を書きたいと思った。最後の一文なんてもう、本当に本当に引用したいと思うけれど、教えてあげない。これは小説的志向塾に参加した特典だから。ソッコーで予約した。
ライターになったらなったで辛かった。つまり、何を仕事にしても辛いのだ。小説家になったら、小説を書くことに大変な苦痛を感じるようになるだろう。どうして、こんなことを書いているのか。なんとも魂を削った適当だ。僕はもう、書くしかないと思った。だから書いている。我慢すれば書ける。出来そうな我慢だ。もう行きたくない場所があって、会いたくない人がいて、したくない労働があって、書くことは辛いけど許せる。苦しみを許す必要はない。許せる苦しみを見つけることが大切なのだ。なのか?