ブログ「いらけれ」

その時、少なくとも僕が語っていたことのすべては、小説という名のあれにつながっていた。だって、小説で頭をいっぱいにしながら話していたのだから。

小説とはつまり、そうは見えない形の自己史なのではないだろうか。小説だと自己紹介している限りにおいて小説は、間違いなく想像の産物だ。それは、実際に起きた事件や過去の記憶を題材にしていてもそうだ。私は、痴漢の心理なんて想像できないと思っていたが、痴漢被害者の心理も想像できない、想像が付かないことに気が付いた。想像が付かないと書けないというわけではないが、想像が付かないことについて書いたら、想像が付かないことを想像して書いた文章になる。そこにリアリティが宿るのか否かは別の話だが、要するに、小説を書く者が送ってきた人生によって、何をどのように想像するのか、想像できるのかという部分が決定してしまうのではないだろうか。それならばそれは、事故死しなかった私による自己史の変奏だと言えるのではないだろうか。

サイゼのティラミスって固いよねえ、固いといえば、ヒップホップでは"韻が固い"って言い方があってさあ、「俺の韻はあずきバーぐらい固い」とか、そうそう「公務員ぐらい固い」っていう表現があるらしくて、面白いなあと思ったんだよねえ、などと話している内に一時間(ちなみに、ティラミスはリニューアルされたようで、とても柔らかった)。それから、同人誌の細かいページ割りについて話したり、3月に前橋で開催される文学フリマに行こうという話をしたりで一時間。夕飯時になって混雑し始めた席の一つを占拠しているのも悪いからと移動。駅前のカラオケでICE BAHN「越冬」を歌う、気合を入れるために。

実のところ、カラオケへ向かう車の助手席に座った時点で、"後藤先生による文章表現講座"は始まっていて、本当にこの男は駄目だな、大した小説も書けないくせに、と自分でも思いながら、ペラペラ話していた。というか、言い訳するけど僕は、書くことよりも読むことの方が得意なの!批評の眼鏡を持ってるの!もらった原稿を深く読み込んでいたから、そこで考えたことを話したかったの(本当にすいませんでした)!ここはこうした方が良いのでは?とか、ここのこれは分からないよ……とか、赤ペン先生みたいなことをやった。熱が入って時間がかかり、結局、半分を少し越えたところでタイムアップの電話が鳴った(原因:サイゼリヤでの無駄口、こちらの小説の感想を聞くのが恥ずかしい)。

小説よりも、日記の方がよっぽど事故死。ガーン。