ブログ「いらけれ」

書いてしまったら、もう済んだこととして心が遠くなる。だから、「2019年の初詣」がアクセスを集めている(狭山不動尊へと初詣に行った人が検索したのだろう。過去にあった施設の話が書かれているから。しかし、それまでアクセスがなかった記事だったので、こういうパターンがあるのかと驚いた。何事も書いておくものである)のを見て、読み返してみたところで、その中に今の僕は入り込めない。
言葉は痰だ。口の中にある痰は、飲み込むこともできるけれど、出さずにはいられないから出す、一度出してしまったら、それまで口腔にあった僕の一部にもかかわらず、吸い込めないほどの他者になる。

今年も初詣に行った。狭山不動尊だ。親の体調不良があって、出発が遅れたためにいつもより少しだけ人が多いように感じる。いつまでもこうしてはいられないのだ、もちろん僕が死ぬかもしれないわけで。
そこまで寒くなかったのは幸いだった。暖房の効いた電車内だと日差しが暑いと感じるほどだった。手袋もマフラーも外した。人々は列になって、賽銭を投げ込んでいるその後ろに並んだ。隣り合わせた大人が、「お願いの前に住所を言わないといけないんだよ」と子どもに教えていた。この話は、僕も聞いたことがあるが…神様ってなんだ。どういう能力に設定されているんだ。

運勢は吉だった。大吉も凶も、だいぶ引いてない気がする。大きい"美"の一字の後には、「心の美しさは あなたに揺るぎない自信と豊かな人生を与えます」と書かれていた。美しさを追求することで、「人生に大切な何か」が掴めるそうだ。
“願望"には「あやふやな願いでは叶いません」とあるが、これは大丈夫そう。やりたいことは固まっている。"金運"には、「今なら大きな買い物をしてもその分すぐに貯まります」とあり、やはりパソコンを買うべきなのか、と思った。

弛緩した働き方のケバブ屋(労働などというものは、それで良いのだろう。客は減るかもしれないが)でケバブを買って、初めてケバブを食べたが普通だった。別の屋台で買った400円の缶ビール(これについては、近くのコンビニで買うべきだ)を飲み、昼間から身体をふわふわさせた。

ほわわんとしながら、一人で歩いて帰る。二年連続ともなると、特に何かを思うこともなし。加えて、二日前には国分寺まで往復し、2万5千歩も歩いていたため、1万8千歩程度は易しいとさえ感じた。一つ大きな坂を越えなければならなかったのは辛かったが、それ以外はほとんどが下りだった。寺は山にあり、暖かな日は落ちていった。通り抜けた大きな公園には、「聖者の行進」は知っているから拙いと分かるトランペットの音が響いていた。こちらが予測するタイミングで、次の音はこなかった。知らぬ間に、そのトランペット吹きを少しだけ応援している自分がいた。

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「ワカコ酒」の‎武田梨奈をドキドキしながら見ていた。実は、心情を語る声がとても良いということに、あなたはお気づきだろうか。画面上の魅力を、ナレーションが倍増させていた。実際に「ぷしゅー」と口に出されるたび、心が離れかけるんだけど、何も起こらない物語に安心して、見続けてしまう。
人々はもう、揺さぶられたくないのではないかと思う。その感じを、僕も一部共有しているつもりだ。予告もなしに、思いもよらないどんでん返しなんてされたくないし、ましてや人間の心の機微になんて触れたくない。そういうものは、そういうものを受け入れる態勢が整っている時にだけ見たい。「ワカコ酒」を見ながら、例えば主人公が事故に遭って、記憶喪失にならないと安心している。そういう悲劇が起こらないと分かっているのが面白い、とまで言えてしまうほどだ。

すでに持っている世界観を揺さぶられたくないという欲望に優しい世界。でも、その世界観はどうやってできたの?初めから間違っていたとしたら、間違い続けるけど良いの?という疑問は、常にある。

私たちは嘘つきである。私たちが嘘をついている相手は、まず第一に私たちである。
私が借りてきたのは、「なぜあの人はあやまちを認めないのか」という2009年に翻訳、出版された本だった。図書館に行ったら、だいたい人文書の並ぶ棚の前に立つ僕の目に付いたから借りた。目次と「はじめに」の間には、こんな文章が引用されていた。

偉大な国家というものは、偉大な人間に似ている。
あやまちをおかしたときには、それに気づく。
気づいたときには、それを認める。
認めたときには、それを正す。
あやまちを指摘してくれた者を、彼は最善の師と考える。
―スティーブン・ミッチェル(老子経に想を得て)

結果的には、今こそ読むべき本だったということだ。
私たちの心が相反する二つの認知を抱えたとき、私たちの心に生じる不協和、それを解決、解消するために行われる自己の正当化。これは何も、悪者にだけ起きているのではない。(正しいはずの)私たちの心でも起きているのだ。後ろ暗いところのない人間などいないのであり、もしあなたが「後ろ暗いところはない!」と強弁するならば、それこそが自己正当化を行っている証である。え?仕事をサボったのは上司が悪いから?……ほらね!
一章までしか読んでいない(!!)から、何とも言えないところだが、理論的な解説ばかりではなく、具体的かつ示唆的なエピソードも満載で、とても面白くておすすめである(今のところ)。とまれ、早く読み進めなければいけない。
最後に、生活に役立ちそうな知恵を一つ。こちらに好意を持っていない相手を味方に引き入れたいときには、親切にするのではなく、親切にしてもらうのが良いらしい。なんでも「(私が)善いことをしたということは、相手は思っていたほど悪い人ではない」と、相手の脳内で論理が回っていくからだそうだ。

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「口づけをした二人には、お互いの顔が見えなかった。」という一文が思い浮かんだが、この先の物語を、僕は用意できそうになかった。これは小説の始まりで、鋼鉄の馬が驟雨の中を駆けていく。文章にするとは、単線にすることである。これは保坂和志が言っていたことか?よく覚えていないがとにかく、目の前ではいくつもの出来事が同時に起こっている、9回2アウト満塁のピンチを招いたピッチャーを見つめるスタンドでは応援をする人々の真ん中でトランペットを吹く応援団員の汗が一つ落ちたが、それ以外にも様々な事象が、さらに、人々の心の内に"いろんな気持ち"が生じている、それを書くということは、無理矢理に文章という一つの流れに押し込めていく作業だ。つまり複数のものを一にするのだから、端々が解れるのも仕方ない、いやむしろ、壊れていなければならない。

めちゃくちゃどうでもいい思い出で、『早稲田文学』の論考の文章が良かった森山至貴氏を調べようとして、「森山」とグーグルに打ち込んだら候補として森山未來の名前が出てきて、中一の習字の時間に、隣に座っていた女の子が下に敷く新聞紙を忘れてしまったというから一枚あげたら、森山未來の記事が掲載されたページで、それを見つけた彼女はファンだったらしく、めちゃくちゃ感謝された。彼女と自分は、それまでに数回行われた席替えで必ず隣になっており、かなり気持ち悪がられていた。しかし、自分が何かをしたわけではなかった。本当にたまたまだった。運命を感じてもよさそうなところだが、すでに自分は別の女の子のことを好きになっていたから、単なる偶然として受け止めたのだった。

シティポップ号に乗り遅れた、うわーん。だからカラオケに行っても、ゼロ年代の売れなかったバンドの曲を歌ってしまうんだね。そんなことより「緩みきってだらしないお正月」とはどのようなものかといえば、一挙放送されていた「古畑任三郎」や「ワカコ酒」を途中から見てしまうようなお正月だ(正確には「古畑任三郎」は年末の放送だったが)。途中から見た「古畑任三郎」でも面白くって、今とは違うベクトルに演技の過剰さがあって、三谷幸喜の脚本も冴えていて、完成度の高いやり取りが展開されていた。あらゆる面で時代は変化しているが、しかし、「変化してしまえ良いのだ」という言説ではなく、例えば、東京学芸大学現代文化研究会の発行する同人誌『F』2014年春号の矢野利裕の論考(が引用する太田省一『紅白歌合戦と日本人」)にあるように、紅白歌合戦が、戦後の時代背景のなかで、男女平等を実現するために企画された(歌でならば、スポーツでは難しい男女の対抗戦ができる!)ということから、考えを始めなければならないのではないだろうか。もちろん、論考の注にあるように、「(男/女という)二項対立に揺さぶりをかけるジェンダー論」まで進まなければならないとしても。

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本屋には当たり前のように本があって、いやなくて、この目の端にも入れたくないような表紙を掻き分けて、そんなことはしないで、大きい本屋にだけ書籍検索の機械/機会があって、思いもよらないようなコーナーに向かって、なくてもう一回。文芸誌の並ぶ棚ではなくてノンフィクションの棚に、平積みではなく一冊だけ差してあるそれを手に取って、ずっと財布に入れたままにしていた図書カードで五百円引かれた代金をカードで支払った。
それで帰った。強風はより勢いを増していたから、飛ばされた帽子はコンコースを滑ったが、それは僕のものではなかったけれど拾って、おじさんに手渡した。あらかじめカバンに入れておいたマフラーが役に立った。大掃除の時に着けたマスクと、帽子に手袋もしてたので、出ていた耳だけが冷たかった。一時間半歩いて帰る間に、無数の鳥を見た。これまでの人生で最多の鳥だ。空の半分が黒くなった。それから電線に止まった鳥たちにとって、電線はどのようなものなのだろうか。人間がいて、活動して、電気を使うから張られた電線に鳥が止まる。電線が地中に埋まったら、大量の鳥はどこへ止まるのだろう。鳥のおかげで空を見て、やはり夕方は綺麗だ。
神の導きなんてなかった。だから僕は特筆すべきことのない人生を送っている。導きのたった4文字も、「ミチビキ」と書くと雰囲気が変わる。短くなった髪のようだ。教育実習でやってきた先生は、ある日突然、長かった髪を切ってショートカットにしてきたから、小学生たちは無邪気に訳を聞こうとしたけれど教えてもらえず、ただ「短くし過ぎたとは私も思っている」という心の内だけを知った。
大晦日はもう遠くなって、買った本だって読み終えてしまった。笑いが、人生をかけて探求するべきテーマであると再確認した。それは時に暴力的で、人を傷つけてしまうから、なおさら。
紅白も格闘技も、バラエティ番組でさえ、ほとんど見ることはなかった。みんなが楽しそうなのが苦手なのかもしれない。それか、20世紀から21世紀になる年の瀬、いつの間にか眠ってしまい起きたら世紀が変わっていて、8歳にもなって号泣したあの経験のせいかもしれない。必要以上に、斜に構えてしまう。長い夜を、日記を書いてやり過ごして、気が付いたら年が明けていた。2020/01/01という数字の並びを見て、2020/02/02はもっと愉快だろうなと思った。それから寝たり起きたりを繰り返して、緩みきってだらしないお正月をした。