ブログ「いらけれ」

これから書く日記のタイトルを付けよう。これにしよう、と思い付く。被りがないかサイトを検索する。同じタイトルのものはなかったが、内容で引っかかって過去の日記が出てきた。そこには、レミオロメンの曲が好き、サブスクリプションで配信されていないのが悲しい、と書いてあった。無いのは承知で、グーグルを使って検索した(違法アップロードされた動画を探していたのだろうって?それは濡れ衣だ)。そうしたら、スポティファイで配信されていることが分かった。去年の10月から解禁されたらしい。僕は今、「朝顔」を聞きながらこれを書いている。楽だねってラクダを前に(ラクダがよく登場する日記だこと)。

この暖かな冬は、まるで雪なんて降らせないぞと意気込んでいるみたいだった。しかし、降った。白い塊を見た兄は私の部屋の戸を叩いて、驚いたような声で「なにぃ?」と返事のあった方向へ、「雪降ってるよ」と言って、その先の「知らないよ」を待たずに、冷たい窓のあるリビングの、バラエティ番組が流れるテレビの前に戻った。兄は何度も笑ったが、その笑い声は、私の部屋まで届かなかった。
すべてをうっとおしいと思いながら脱ぎ、着た。そうやって振り払い、身に纏った。そして世界は変わった。着替えるという行為のありがたみを知った。ナツノカモ低温劇団の本公演「月の裏側」昼の部を予約したから、そのチケットを取りに行かなければならなかった。3月1日なんて本当に遠い。生きているとも思えない。しかし、数日以内にチケットを受け取らなければ予約が無効になってしまう。家から隣駅近くのローソンまでは本当に遠い。雪は雨に変わっていたけれど、寒さが厳しいことに変わりはなかった。
何を言おうか賞である。あるいは、何と言おうか賞である。何て言おうか賞も追加しよう。牝馬三冠である。ローソンを後にして、駅ビル3階のフリースペースに置かれた椅子に腰を落ち着けた。マスクを通り抜けた冷気のせいで、火傷を癒すことさえできそうな頬も、空調設備の効果ですぐに温まった。私は、小説の神髄について思いを巡らせた。それは無意味なのかもしれなかったが、突っ伏した頭は自動的に働き、休むことも眠ることもできなかった。
駅前のロータリーで待ち、身体が冷えた。落ち合った私たちは、サイゼリヤへと向かった。先日食べられなかったアロスティチーニがサーブされた。癖はなく美味しかったが、物足りなさも残して胃に消えた。私たちは、私たちの書いた小説について語り合わなければならなかった。しかし私は大いに照れ、それを始められないでいた。

ブログ「いらけれ」

なんか、それ読みたい(見たい、聞きたい、歌いたい)のか問題って、もっと重要なのかもしれないって思い始めている。だって、たくさんの虫とか下水道のなか、切り刻まれたぬいぐるみなんて想像したくないじゃん。だから、想像させられそうな文章は読みたくないじゃん。エログロナンセンス的な興味から離れたところで、それらを語ることはできるのだろうかという問い。

問題がいっぱいで、毎日のように頭を抱えている。彼の身体から切り離してセカンドバッグに入れている。ああ、いけないいけない。それでうちらはガストにいた。頼んだデカンタワインをドリンクバーのジンジャーエールで割って遊んでいた。なんてつまらない、まるで大学生みたいな大学生だ。安いワインは飲みやすいというか、うちらには炭酸飲料を配合するために神が作った飲み物にしか思えなかった。

小説研究Ⅰのために、前はピンと来なかった小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』を読んだら面白い。テクストの妙味。MCバトルに惹かれているポイントも近くにあって、そんなことが言えるんだ、という意外性がありながら、それだけではない奥行きが表現に宿っているかどうか。例えば4ページ、「肝っ玉が小さくて番犬になるどころか泥棒にへいこらして金庫破りまで働きそうな柴犬の三太」とか。思ってもみなかったことは言えない、だからこそ、思ってもみなかったことを言いたい。
そのためには、まず、何と言っても知識並びに教養が足りないと思ったから、imdkm『リズムから考えるJ-POP史』と木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』を買った。合わせて3000円を超えることにより、楽天のキャンペーンでポイントが3倍とか、そんなことはまったく関係がない。ただただ、この前行ったイベント「(J)POP2020」でimdkmさんの発表が面白かったのと、矢野利裕さんが紹介していたから買ったのだ。妙な勘繰りは、あなたのためにならないから、やめておいた方がいい。

そういえば、この前の火曜日に行った渋谷らくごの感想を書こう、俺は書かなければならない、そういう人間なのだ俺は、とか考えていたはずなのに忘れていたので、今から始める。
馬石師匠の湯屋番は聞いたことないくだり(くすぐり?)が多くて、新鮮だった。あのオリジナルな世界観の方に噺が飲み込まれていて、客席にいたら、もう爆笑するしかないのだ。
扇辰師匠の徂徠豆腐も最高だったわけだが、胸がじんとしている状態で、いろいろ考えた。後の荻生徂徠ではあるものの、今は腹を空かせて困っている男の話を聞いて、「偉い」と言う豆腐屋は、どうしてもファンタジー(だって、金持ってないのに豆腐買ってるのよ?)で、江戸時代においても、そんなに寛容ではいられないよ、というファンタジーだったのかもしれないが、徂徠の語る思想も、彼を評価する豆腐屋も、ポジティブなものとして捉えられていたのだろう。だろうか?と考えているのは聞いている僕で、僕は江戸っ子になったつもりでそれを聞く。まず江戸っ子になり、登場人物たちを粋だと捉えようとする。つまりそこでは、ファンタジーが二階建てになっているのだ。なっているのだ、と書いて、この感じが伝わっているのだろうか?

ブログ「いらけれ」

ハンカチ落としってなんじゃ、あの遊び。何であんなに楽しかったんじゃ。

どこかの道に僕はいて、そこにマンションというアパートがあって、前には車二台が通れる程度のスペースがある。スペースはどこにでもあり、どこもかしこも駐車場である。風に丸まった草が飛ばされていて、簡素な屋根の下で、丸いテーブルを囲んだ三人の男がトランプをしている。新築住宅の一階と二階を万国旗が結んでいる。風にはためいているのは、鯉のぼりも同じだ。月には兎。土には土竜と、節分の豆。ついでにクリスマスのイルミネーションも光っている。僕は、その奥に目を向ける。アスファルトの先に滑り台がある。近づいて分かるのは、台の終わりから砂場までの距離の長さだ。想像の僕が怪我をした。尻をさすりながら、隣の遊具についての説明を試みる。硬そうなコンクリートに四本の鉄の棒が刺さって伸びて、先が中心に集まっている。その下に、大きな鉄のゆりかごがぶら下がっていて、真ん中に木で作られた座席が付いている。錆びていて壊れそう。これは、いつまでここにあるのだろう。

小説について考えるなかで、目の前にあった柴崎友香『わたしがいなかった街で』を開いてみた。歌ってみた、踊ってみた。主人公が買い物をする様子が描写されていた(その後、仕事の同僚と鉢合わせしていた)。
もし、この小説にテーマを見出すのならば、それには関係のない場面だ。あらすじには残らない部分だ。じゃあいらないのか、そんなことはないはずだけど、言い切る自信はない。すべてのカットに意味のある映画が、果たして面白いのか、という問い。
そもそも小説は何のためにあるのだろう、それが読んだ人に影響を与えるためにあるのだとしたら、自己啓発書が売れる理由が分かるというものだ。

小説を考える、小説を考えるのではなく、小説が考えるのだとしたら、それは少しだけ面白いのかもしれないと思った。『ジョーカー』がジョーカーについての映画ではなく、『ジョーカー』それ自体がジョーカーだ、みたいな。日記もそう。考えたことを書くのではなく、書くことが考えている。日々について書くのではなく、書いたことが日々になる。

相対主義に侵されて、善いことと悪いことの区別が無効化されているのだとしたら、それを構築していけよ。言葉にならないのならば、言葉のなかから見つけていく。そのために小説があるのかもしれない。それは校長先生の話みたいに説教臭いものではない、あくまでも日常の実践が作り上げていくものだから、小説は日常を実践している。

言葉が壊れたのに、言いたいことが言えたので、今日は終わりです。

ブログ「いらけれ」

そこそこの満足を覚えたい。炬燵で温まりながら僕は、auのキャンペーンで当たったいちご味のホームランバーを食べ、ピーチ味のストロングゼロを飲みながら、貯まっていたポイントで購入したバルガス=リョサ『都会と犬ども』の冒頭を読んでいた。小説を書いてから、本当に小説の読み方が変わった。ああ、こう書けばいいのかと、毎行毎行に発見がある。小説のピッチ内にはいない、だがスタジアムの観客でもない。ボールボーイのように間近だ。それなりの心地良さに何かが足りないけれど、それでいいじゃない、と僕が言ってみた。反論してみた。賞とか残高のような分かりやすさが欲しい、手ぶらの自信満々はただの強がりにしか見えないから、と。

子どもが泣いている。大人が「泣かないの!」と怒っている。
不満や苦痛の表明は、どのような形でもいい、泣きたいときはまず泣くこと、怒りたければ怒ること、僕はそう教わった。ある面でそれは正しい。苦しんでいる人が、自身の苦しみを正確に言葉で表現できなければ手助けしないという奴は、ただの人でなしだ。そうだろう?
でもそうやって、少ない手段による拙い伝達を認めてしまうのは、結構冷たいことだと思ったんだ。相手を下に見て、成長すると思ってないというか。だからさ、やっぱり誰かの悲しみ/苦しみ/怒りを、そのままの形で受け止めつつも、「泣いたままじゃ分からないでしょ?なぜ泣いているのか話して」って諭す大人も必要だし、暴言や暴力は(基本的に)行使してはいけないと伝えて、そうして相手が変わってくれることに期待する人も、そこに存在していなければならないと思った。

この前来た「小説的思考塾」の先行予約の告知メールに、保坂和志が企画の趣旨として長い文章を書いていて、それは本当に胸が熱くなるものだった。わーってなった。小説を書きたいと思った。最後の一文なんてもう、本当に本当に引用したいと思うけれど、教えてあげない。これは小説的志向塾に参加した特典だから。ソッコーで予約した。

ライターになったらなったで辛かった。つまり、何を仕事にしても辛いのだ。小説家になったら、小説を書くことに大変な苦痛を感じるようになるだろう。どうして、こんなことを書いているのか。なんとも魂を削った適当だ。僕はもう、書くしかないと思った。だから書いている。我慢すれば書ける。出来そうな我慢だ。もう行きたくない場所があって、会いたくない人がいて、したくない労働があって、書くことは辛いけど許せる。苦しみを許す必要はない。許せる苦しみを見つけることが大切なのだ。なのか?