ブログ「いらけれ」

忘れちゃったなあという感じ。もう二月になってるし。どうやって書いてたんだっけ、毎日。っていうかもう、これまでより格段に忙しくなっているから、これまでのやり方が通用しなくなっているのかも。新たに編み出さなければならないのね、やり方を。それが楽しいじゃない、私よ。
しかし、今の私に休息をください、という思いもある。とにかく、一刻も早く仕事をやめたい。自分の部屋で、とても辛いから帰りたいなあと思ったが、すでに帰ってしまっている人間には、帰る場所はないんだなあと思った。見事に上手くいかない人生を使い、減らすのは虚しい。もう少し、面白いと感じる日々にならなければ、当然の如く日記は書かれないのだから。

先週の土曜日には、space えんがわ inn「ひとつき十冊」に行ってきました。相沢直さんの「医学部平凡日記」にある通り、とても雰囲気の良い空間でしたし、500円しか参加費を支払っていないのに、美味しいお菓子やみかん、お茶までいただいて、かなりの良イベントという印象でした。
告知を見て、「笑い」について語られるだろうと予想したのが、聞きに行った動機だったので、内容的にも満足でした。とはいえ、たまたま私も持って行っていた早稲田文学の増刊号(数日前、人に見せるために持ち出して、リュックに入れっぱなし)が、3つのリストに入っていたのには、流石に驚きましたが。
なかで盛んに語られていた「笑い」、とくに、近頃よく耳にするようになった「誰も傷つけない笑い」については、引き続き考えていきたいと思います。当然、結論の出る類の問題ではないので。お手伝いしている哲学カフェというか対話の会で、「笑い」や「傷つくこと」をテーマにしようか、という話も出ているところですし(未来のことなので、確定ではないですが)。
少しだけ、今考えていることを書くと、「誰も傷つけない笑い」ではなく、反対側にある「誰かを傷つける(傷つけそう)な笑い」に対する忌避感がポイントなのではないかと思っています。笑いに暴力性があるのは、大昔から変わっていないはずなので、それが殊更に取り沙汰されるようになったのはなぜだろう、と答えはないわけですが。
ここには、綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』の前書き「みんなが差別を批判できる時代ーーアイデンティティからシティズンシップへ」で書かれている、反差別言説の「アイデンティティ」から「シティズンシップ」への論理転換が関わっている……のかもしれませんし、違うかもしれません。そういうことは、各々が考えていくべきではないでしょうか!と、なぜか逆ギレしたところで、今日は終わりです。