ブログ「いらけれ」

千回終われば、千回始めればいいらしい。『100万回生きたねこ』。パラレルワールドの私に手を振って、名残惜しそうにゆっくりと歩き出す私を、今の私が道端に座って見ている。

冬とは思えないほど暖かい日もあって、当て所もなく彷徨った末に私は、長く、まっすぐな車道の向こうに、世界が燃えるのを見るだろう。丁度、分厚い雲はこちら側に伸びて、夜の一部になろうとしているから、まるで黒煙のように見えるだろう。真っ赤な悲鳴が聞こえるその瞬間に、感動一つしないままに、曲がりそこねた車に轢かれる妄想が脳裏に浮かぶだろう。厚手のコートを着てきたのは失敗だったな、なんて思うだろう。まだ春を知らないのに虫は、いつ目を覚ませばいいか知っているつもりで、冷たい雨に打たれたして、かわいそうだと思うに違いない。
今度は、「頑張ります」と百回言ってから夜の街に繰り出そう。夜なのにやってない出来たてのバーは、内側までしっかりと暗いだろう。言えたら言えただけのことを言おう。言えないことを言おうとしないようにしよう。人が死んだら、まずは悼むことにしよう。それが美徳だと言おう。私は銀色の箱の前に立つだろう。蓋を押し込んで、読み終えた本を滑り込ませるだろう。『なぜあの人はあやまちを認めないのか』は、"自己正当化"ですべてを切ってしまっていると感じながらも、本当に良い読書体験となるだろう。特に、第6章の「愛を殺すもの」が気に入るはずだ。壊れてしまった人間関係について、壊れたのではなく私が壊したのだと理解するだろう。さて私は、素直に過ちを認められるだろうか?それは……本を読み終わってみなければ分からない。

「大層詩的」というタイトルでありながら、普通の出来事を普通に書いていたのは、日常を描く物語が増えている理由を考えていたからなのだが、そんな企ては当たり前に伝わらないから、日記の更新なんて骨の折れる作業はやめてしまうべきなのだろう。よくよく考えてみれば、『プレーンソング』だって日常系なのかもしれないし、つまり、(一見)ありふれた毎日(と思える何か)を書くということは、それ自体が何かになるのかもしれない、書き手の書き手としての幹を太くするのかもしれないけれど、しかし、書いてしまうと誰かが読むかもしれないわけで、それは誰かが読むに足る文章なのか、さらに言えば、もっと有意義な文章を読むべきなのに何をしているんだという、それを読む誰かへの怒りもあって、割り切れない気持ちだけが残った。

これらはすべて未来の話だったから、その時の私は知らなかった。フレッシュネスバーガーを出て、会場であるカフェへと向かった。