ブログ「いらけれ」

これから始まるのは、奮闘の日々の記録だ。日々の奮闘の記録ではない!奮闘しているのは毎日だし、そしてこれは日記だから。僕は土曜日の夜にいる。ひどい頭痛に苛まれている。その事実は、日曜日が終わって、月曜日の1時になって、ようやく書かれる。

僕の人生はまったく充分ではないし、順調ではない。改めて言うことでもない。どうしてなのか分からない、アンケート調査が重なる理由が。次の火曜日、次の日曜日、そして今日という土曜日。有名な電気街のある土地に向かわなければならない。浴びるシャワーは冷たい。人々の心のように。

今年に入ってから爆発的に忙しくなっているのは、僕が望んだことだから構わない。むしろ感謝しなければならないと思っている。謙虚さは大切だ。慎み深さを失った人間は醜いと思っている。今年からスタッフとして入ることになった哲学カフェの企画会議や、去年に仲間と立ち上げた同人誌の編集会議では、当たり前のように3~4時間話している。楽しい。お金にはならないけれど有意義な時間は、とても楽しくて素晴らしいのだ。平日午後の遊覧船に乗るような幸福。

例えばそこで僕は、「傷付きやすさ」という問題について、考えを話していた。誰も傷付けないことは可能なのだろうか。傷付きやす"すぎる"人もいるだろうし……転がるように語りを進めながら、僕たちは傷付かなければならないと、そう気付いた。
僕たちは適切に傷付かなければならない。なぜなら、この世界にある目も当てられない状況を前にして、僕たちの心が傷付いて、そこで初めて誰かに手を貸そうと思えるからだ。心が動かされなければ、何かをしようと動くこともない。
もちろん、傷付かないでいることが求められる場面もある。災害救助とか、医療とか。しかし、そういったプロフェッショナルでないのならば、まずは傷付くべきなのだろうし、その痛みや苦しみを受け止めるべきなのだろう。

傷の問題については、またいずれ話そう。電車のなかで僕は、『なぜあの人はあやまちを認めないのか』を読んでいた。記憶について書かれた章には、宇宙人に連れ去られたという"記憶"を持つ人が出てきた。当然、その"記憶"は作られたものなのだが、当人にとっては揺るぎない真実になっている。そして、そう信じ込むに至ったメカニズムを知ると、自分の"記憶"も怪しいものに思えてきて、背筋が寒くなるというか、何というか。「この出来事はあった」と強く信じていることは、何の証拠にもならないし、何一つ証明しない。それならば僕は、僕の記憶は、過去は、存在は……と戸惑っても仕方がないので、ひとまず自分を過剰に信じないことから始めたい。