ブログ「いらけれ」

日記と言いつつ、最近は作り話ばかり書いている私です。小説の種みたいな出来事を思い出すことが多くて、簡単そうだからそれを書き始めて、結局上手く書けなくて悩む、みたいなパターンを繰り返しているところです。私は小説が書きたかったのかもしれない、と思い始めているところです。もうここを、フィクションだけを書く場所にしてしまおうかとさえ考えているところです。
しかし、書かれてしまった嘘の面白さに、今一つ自信を持つことができていないため、それもどうかなと、私は思っているようです。でも、面白い文章が書ける日を待っていても、面白くなれるはずがないので、センターマイクの前に立つ漫才師のような気概と心持ちで、とにかく書き続けていこうと思います。

『ニック・ランドと新反動主義』を楽天ブックスで買ったんだけど、帯が少し切れていて、指紋?みたいな汚れが付いていた。あと、故障して年末に取り換えたAQUOS sense2のイヤホンジャックがまた壊れて、イヤホンの片耳から音が出なくなった。「んんっもう」って毎日。

期せずして、決意表明になってしまった。本当は、日記から逃げたいだけなのかもしれない。日常は書きづらい。立場が変わって、気をつかうべき局面が増えている。そして、知り合いにも至らないような、顔見知り程度の人については、どうせ読まれないとは思っていても、何を書くにしても躊躇してしまう。やはり日々の記録は、手書きノートに戻るべきなのだろう。公開しなければ、誰に読まれることもないのだから。

ホームパイのチョコがけ、うめえって言うほどではないが美味しい。普通のホームパイってあんま好きじゃなかったけど、これはブラックサンダーとか、そっち寄りの食べ物になっていて好き。

「9/15(火)・毎日がつまらないのは自分のせいだ、それならばまず、変更を加えるべきは己の暮らしだ……なんて、そんな分かったような口を利かないでくれよ、俺」
高校生の頃から、やっていることに変わりがない。成長していないのだ。最終学年の私は、三ヶ月にわたってノートに日記をつけていた。棚から取り出して、少しだけ読んでみた(そして引用してみた)。字が汚いのは仕方がないが、面白くないのは許し難い。こいつは何も見えていないのに、なぜこれほど断定口調なのだ、と思う。こいつよりは、今の方が思慮深いだろう、と思う。人間は成長する。それは書いておいたから分かったことだ、だから、日記は書いておくべきなのだ。

日記に書かれている日々はあったのだろうが、読んだところで胸に迫る現実味がない。すべては過ぎ去ってしまう。あらゆる苦しみも、喜びも。だからこそ、今の私が望む方向へと道を曲がろう。

ブログ「いらけれ」

日本では宇宙と呼ばれている。そこには地球というものがあり、たくさんの人間というものがいる。人間には名前というものがあった。その人間のそれは、ミシタというものだった。

長い行列の先にあったのは、あまり美味しくないラーメン屋だった。待っている間には、鞄からスマートフォンを取り出し、経過した時間を見て、ツイッターのタイムラインを見て、またしまうという動作を五回繰り返した。手前に並ぶ男と女は親しげに話し続けていた。私はそれを、聞くともなく聞いていた。

私の会社で人事異動が行われたのは、つい最近のことだ。新たな上司となった男によって、同僚たちの結束力は高まっていた。つまり、皆が口々に不満を述べた、ということである。上司の男には、彼が引き連れてきた手下のような男がおり、体の前で重ねた手をすり合わせていた。まるで蠅だ。

私は、その男の話を聞いていた。時計の針が一定の速度で動いていたとしても、主観におけるカイロス時間は伸びに伸びていた。退屈だ、と口に出してしまえたら、そんな人間に生まれていたら、どれほど気楽だっただろうか。どうしても傍から見たら親しげ、そのように振る舞ってしまう。その内に、私たちが並んでいた行列は短くなった。扉の手前まで来て、そわそわし始めた男の口は開かれなくなった、やっと。

私はバイトをしてます、「らっしゃいせー」。"いらっしゃいませ"って長くないですか?私は、「しゃいせー」でも良いと思ってます、それか「せー」。でも、「せー」って言ったら社会的にマズそうだし、店長にも怒られそうなんで。それぐらいはわきまえているつもりなんですけど、そもそも社会ってなんなんですかね。私は高校生なんで、そういうのは知りませんね。あ、しゃいせー。

ラーメン屋の朝は早く、しかし眠たい目をこする暇もないほど店は混雑している。ありがたいことだ。家に帰れば、生まれたばかりの娘が待っている。男女二人組のお客様が頼んだのは、ウチの看板メニューである「醤油とんこつ」と、「開運みそカレーバター」。さあ、と一呼吸。気合を入れてから、麺を鍋に入れた。

宇宙が違えば出会わなかった私たちは、宇宙が同じだったから出会ったと言えるのだろうか。いや、別の宇宙では私が彼であり、彼が彼女であり、彼女が私だったのだから、すでに出会っていたと言えるのかもしれなかった。つまり私たちは、それぞれの私を交換して遊んでいるだけの存在だったのに、なぜか好感を持ったし、嫌悪感を持った。私は、別の私を見ていたのだから、それは確かに私への感情だったというのに。

ブログ「いらけれ」

あー。死たくないけど同じぐらい生きていたくない。あー。

若くして売れた彼の背後にプッシャーが……というようなイメージはあり、何が成功で幸せで、望ましい未来だったのかなんて、分からなすぎる。短距離で得た評価が、一夜にして鋭いナイフに変わる姿を何度も見てきた。神はサイコロしか振らないから、良いマスの次に悪いマスを踏むゲームのような人生。

吉田は団地のどこかに住んでいて、主にBB弾で通行人を撃つことを生業にしていたとはいえ、その仕事は当然金にならなかったので、彼の持つキラカードのほとんどは、地域の少年たちから吸い上げたものだった。少年たちは、地元のカードショップで箱からパックを取り出して、一生懸命に触ってその硬さを確かめたり、間違い探しのつもりでいくつかの袋を見比べて、ゲーム会社があえて残したサインを見破ろうとしたり、たゆまぬ努力を重ねていた。それらはすべて、レアカードをゲットするために行われていたのだが、まことしやかに語られていた判別法(通称:サーチ)は都市伝説であり、珍しい紙片を手にすることができたのは、箱ごと"大人買い"をする裕福な家の子どもだった。少ないお小遣いを握りしめた少年たちは、周りが見えなくなるほどサーチに熱中したことで、パックを持ったままカウンターに立つおばさんに背を向けて、万引きを疑われるなどし、己の不運を嘆いていた。
「悪事をしたい」という吉田の欲望を、多くの少年たちは解することができなかった。しかし吉田は、理解できない少年たちを歯牙にもかけなかったから、何度も万引きをした。万引きの獲物や仕留め方には複数のパターンがあり、その一つがカードショップ、サーチする振りで後ろを向き、さっと懐に入れるというものだった。少年たちは後に、自分たちが疑われる原因を作ったのが吉田だと知り、吉田と近い年代に生まれてしまったことを呪ったという。そして吉田は後に、若くして市議となり、生まれ育った場所を離れなかった元少年たちの目が、大量に死んだと言い伝えられている。

安易な思い出に頼らないためには"他者"が要る。文や映像の向こうに、あるいは目の前に居て、何かを発する"他者"が。自分の過去は有限だが、"他者"の経験を頂戴すれば、書ける事象はほぼ無限になる。差し出す前に、まず受け取ること。受け取ってまず吟味すること。考えなしに歩くのは無謀、だから地図のように、インプットを広げて。

ここは良い地。だからお願い、すべての嫌なもの、消えよ。

ブログ「いらけれ」

その時、少なくとも僕が語っていたことのすべては、小説という名のあれにつながっていた。だって、小説で頭をいっぱいにしながら話していたのだから。

小説とはつまり、そうは見えない形の自己史なのではないだろうか。小説だと自己紹介している限りにおいて小説は、間違いなく想像の産物だ。それは、実際に起きた事件や過去の記憶を題材にしていてもそうだ。私は、痴漢の心理なんて想像できないと思っていたが、痴漢被害者の心理も想像できない、想像が付かないことに気が付いた。想像が付かないと書けないというわけではないが、想像が付かないことについて書いたら、想像が付かないことを想像して書いた文章になる。そこにリアリティが宿るのか否かは別の話だが、要するに、小説を書く者が送ってきた人生によって、何をどのように想像するのか、想像できるのかという部分が決定してしまうのではないだろうか。それならばそれは、事故死しなかった私による自己史の変奏だと言えるのではないだろうか。

サイゼのティラミスって固いよねえ、固いといえば、ヒップホップでは"韻が固い"って言い方があってさあ、「俺の韻はあずきバーぐらい固い」とか、そうそう「公務員ぐらい固い」っていう表現があるらしくて、面白いなあと思ったんだよねえ、などと話している内に一時間(ちなみに、ティラミスはリニューアルされたようで、とても柔らかった)。それから、同人誌の細かいページ割りについて話したり、3月に前橋で開催される文学フリマに行こうという話をしたりで一時間。夕飯時になって混雑し始めた席の一つを占拠しているのも悪いからと移動。駅前のカラオケでICE BAHN「越冬」を歌う、気合を入れるために。

実のところ、カラオケへ向かう車の助手席に座った時点で、"後藤先生による文章表現講座"は始まっていて、本当にこの男は駄目だな、大した小説も書けないくせに、と自分でも思いながら、ペラペラ話していた。というか、言い訳するけど僕は、書くことよりも読むことの方が得意なの!批評の眼鏡を持ってるの!もらった原稿を深く読み込んでいたから、そこで考えたことを話したかったの(本当にすいませんでした)!ここはこうした方が良いのでは?とか、ここのこれは分からないよ……とか、赤ペン先生みたいなことをやった。熱が入って時間がかかり、結局、半分を少し越えたところでタイムアップの電話が鳴った(原因:サイゼリヤでの無駄口、こちらの小説の感想を聞くのが恥ずかしい)。

小説よりも、日記の方がよっぽど事故死。ガーン。