ブログ「いらけれ」

決意というほどの強度はない、ピンと張られていないロープは綱渡り師を困らせるのかもしれないと思いつつ、2019年は振り返らないで終わろうと決める。この一年は、「2018年について考える。」にあるような高邁な理想の、一里塚にはなったと思う。だから、それなりには満足している。けれど、もっとやれたはずだ、とも思う。うん、まだ上手く言えない。

大掃除は明日することにして作られた時間で、ツイッターのブックマーク(ずっと前からあったけど、やっと使えるようになってきたぜ、この機能)を掃除する。サイトを経巡る。大和田俊之先生が「webちくま」でやっている連載が好きだ、と書いたのは去年の6月。「7.ケンドリック・ラマーと黒のグラデーション|アメリカ音楽の新しい地図|」も素晴らしかったということは、ぜひお伝えしたい。物理的にも心理的にも遠くの出来事と文化、そのようにして眺めていた、眺めるしかなかったもののなかに潜む襞は、解像度の高いレンズを通してしか見ることができない。

夜はすき焼きだった。年内に一度食べておきたかったそうだ。「だった」、「そうだ」という受け身かつ他人事な姿勢と態度に、実家住まいのリアリティが滲む。たまに食べる牛肉はおいしい、って、牛肉を食べるたびに言っている気がする。

暖房を消すと、途端に冷えるなあと思いながら僕は、床に就かない。深夜にやってはいけないことの一つに、パソコンを買おうかどうか"悩む"というのがある。買うなら買うべきである。悩みの森に入ると、よく分からない用語について調べたり、必要なものをすべてセットで買うといくらになるか通販サイト試したりで、時間が溶ける。11万円を出せば、理想の環境が構築できるっぽい、と自信がなくなってしまうのは詳しくないからだが、それをカートに入れる手前でページを閉じる。来年死ぬって知っていれば買うけれど、もう少し長く生きるつもりだから、貯めておこう。実入りの良い仕事にありつけた時に、また考えよう。

昨日の日記のタイトルが「(カタカナ)の(カタカナ)」なのは、『佐藤大のプラマイゼロ』の話をするつもりで、そのオマージュをしたかったからだ。でも、1000文字ではそこまで書けなかった。「#119 カヘンのヤサシサ」の、かが屋やぺこぱの"優しみ"が受けるのは、炎上ばかりの優しくない日常においてそれが非日常だから、というのは面白い視点だなと思った。アニメが"優しい世界"を描くのも、それが理由なのかもしれない。(ちなみに、この前『放課後さいころ倶楽部』の最終回を見て、久しぶりにアニメ作品を最後まで見たわけだが、最終回には度肝を抜かれた。もう、すべてがとろけていた。「プラマイゼロ」でも、優しさの裏にある緩やかな同調圧力について語られていたけれど、本当に優しくて、柔らかく甘いマシュマロで首を絞められているみたいで、窒息しそうだった)

ブログ「いらけれ」

(承前)

例えば目の前に男が現れて過去を語り出したとして、それをあなたが聞いていたとして、あなたがそこまで疑り深い性格ではなかったとして、それでも、それが本当のことなのか、検討してしまうものなのではないだろうか。真実として差し出される過去には、往々にしてフィクションが紛れ込むものだから。

もちろん語りには、出来事としてありそうかというレベルでも、疑いの目が向けられる。例えば「阿佐ヶ谷でUFOを見たことがある」というような、突拍子もない告白を聞いたらあなたは、まず間違いなく怪しむだろう。では、ありそうな話だったらどうだろう。その時あなたは、男の表情や口調から受ける印象で、真偽まで行かなくとも、その確かさを見極めようとするのではないだろうか。

宿屋の主人が、意外な事実を話し始める。とても上手に、かつ饒舌に。ひどい仕打ちを受けた過去を語る。立て板に水のごとく、それでいて情感たっぷりに。

あなたに、信じていた人から裏切られた経験があれば、あなたも理解するだろう。その過去は、寝室に、浴室に、街中に、どこでも、どこにいても、突然に現れる。忘れられないというより、繰り返し思い出さずにはいられないという風に。何度も観た映画のように記憶は、細部まではっきりと見え、そのことにまた苦しめられる。

ようやく言いたいことに近づいてきた。つまり上手な語りは、語り手の抱える思いの大きさを、私たちに伝えているのではないだろうか、ということ。語り手が何度も何度も、思い出したくもないのに思い出し、いつ来るか分からない、そればかりか、来ないかもしれない来るべき時に備え、何度も何度も脳内で、形を持たない他者へと語ってきた記憶だからこそ、そのように達者に語れているのではないかと、私たちは思うのではないだろうか、ということ。なにも、涙ながらの訴えだけが、苦しみや悲しみの表出、表現ではない。努めて冷静に、言葉を連ね続ける姿は、もっと大きな悔いや、あるいは恨みといった感情の存在を、私たちに教えることだろう。

ここまでなら、結構安定したというか、世界観と話の筋に合った解釈だと思うんだけど、こういう上手な語りって、一方で胡散臭いというか、それは詐欺師を連想するからなんだけど、人の心を動かす、それは良い方向にも悪い方向にも使えるから、話上手であればあるほど信用ならないって思いませんか。それで宿屋の主人が、自分の子どもまで利用する悪い奴で、旅人たちには、嘘の過去を何度も何度も語って聞かせていたとしたら(だから話が上手になっていったのだとしたら)、とても面白いなと思った(「新説・ねずみ」)。今度は、そういう目線(当然、間違ってるのは分かってますよ!)で聞いてみよう。

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落語と映画/ぷらすと×アクトビラ #1365

まずは、こちらの動画をご覧ください。年末の1時間半を使って。

落語を見た、聞いたからといって、落語そのものについて、その構造や形式について考える必要はない、観客なのだから。面白かったとかつまらなかったとか、気楽にジャッジしていればいいものを、そうしていられないから僕だ。こんな変な人は、あまりいないらしい。

主に「ねずみ」について以前から考えていたことがあって、それは登場人物の語りの問題だ。「ねずみ」には、宿屋の主人による長い語りのパートがある(知らないなら、文明の利器を使って探そう、すぐに名人の高座と出会うことができるだろう)。結構良いエンディングを迎える話だし、聞き終えた時には大体ほわーっとなって丸め込まれてしまいがちなのだが、聞いている間には確かに違和感があって、根がしつこい僕は、それを忘れられない。違和感の正体はおそらく、登場人物による回想が落語的であること、例えば自分の子どもの口調を真似て話す部分があり、宿屋の主人の語りにしては上手すぎる(落語家がやってるから当然なのだが)という問題だ。

ドラマや映画ならば、宿屋の主人が語っていると徐々に画面が回想シーンへと移り変わる、という手法を使う場面。小説ならば、すべてがこちらの想像に任されるがゆえに、落語家ほど達者ではない語りを想像するだろう場面。落語の困難は、観客に想像を委ねる手前で、実際に見せなければならないということだろう。

(ちなみに、この日記で感想を書いた「ていおん」の作・演出・出演で、「最高のアー」にも出演されているナツノカモさんが、落語における回想の使われ方についてや、「ねずみ」を例に挙げながら落語のナレーション部分についてツイートされていて、「信用できるわあ、親近感湧くわあ」と【勝手に】思っていた)

それで僕は、上の動画で立川吉笑さんが話している「講談はナレーションで説明していく、落語はト書きを排除して会話で表現するのが粋とされている」という解説を聞いて、会話のなかに回想を織り込んで、押し込めて、畳み込んでいるから、違和感が残るのかもしれないと思った。確かに、「そこから男は滔々と語り始めた」とナレーションして、回想のなかに完全に入ってしまえば、おかしいと思うこともないだろう。

では、わざわざ一人称的な語りとして過去を語らせているのは、なぜなのだろうか。どのような意味が、理由があるのだろうか。僕は落語家ではないから、真面目に考えたわけではないが、思いつたことがあって……ちょうど時間となりました。この続きは、また明日。

ブログ「いらけれ」

一等おかしな言葉が、意外にも人を支えていたりするのだろう。

年末だが、まだ年始ではない。クリスマス飾りは片されてしまって、日めくりカレンダーも残り数枚だ。近所のビジネスホテルの前には、門松が出してあった。家を出た時は天気雨で、隣のビルの工事で水でも使っているのかと思った。それほどの天気雨だった。日が差している場所では、風に煽られて斜めに降る雨粒が光っていた。不思議な気分だった。
いやに明るい道で、駐車場に上がる小さな段差の前で、「ここは任せて先に行け」状態になっている男の人がいたので、僕は近寄った。僕は全然だから、ちゃんと仕事をしている人を手伝わなければならない。いかんともしがたい荷台に、堆く積み重なった段ボールを彼が降ろす間、すべてが崩壊しないように支えていた。その時だけは、黒ずくめで髭面なのを忘れていた。感謝され、その場を去った後で、怪しい風体であることを思い出し、こういう恰好は止めておいた方が良いな、そちらの方がお得だなと思った。
今年はいくつか人助けをした。鼻高々である。天狗である。今までだったら、見て見ぬふりをしていただろう。感謝されようがされまいが善行らしき行動は、心がすっとするから来年もやろう。
図書館の近くまで行って、やっと休館日である可能性に思い至る私。もとい僕は愚かで、図書館はまだ休みではなかった。時間があると言ったって、やらなければならないことも多いし、読めるかどうかは分からないけれど、解決されない問題のヒントになりそうな本を借りた。午後3時が午後3時25分になっていた。図書館って、時間の進み方がおかしいと思う。アスファルトの染みすら残さずに、降り続いていた雨は上がっていた。
追い詰められる世界から助かりたいと思いながら帰って、やるべきことを片付けたから、冷蔵庫に残っていた500mlのハイボール缶を飲んだ。最高に上機嫌になって、馬渡松子の「さよならbyebye」を口ずさむテン年代の終わり。「幽☆遊☆白書」が懐かしい、それはいいけどなぜ今なんだって、それは僕にも分からないよ、「微笑みの爆弾」ならまだしもって、僕も思ったよ。
風呂に入って髭そって、明日に備えて準備万端で、僕はこうして日記を書いている。“俺の竹箒で大掃除”を除けば、これが年内最後のイベントだから、肩の力を抜きつつ全力で楽しんで、そして終わったら、頭の中の溢れるイメージを形にする、その作業に没頭する予定だ。どうなるか見えない先は真っ暗で、優しくて暖かいですね闇は。だって、可能性しかないのだから!