いろんなわたしたち
日本では宇宙と呼ばれている。そこには地球というものがあり、たくさんの人間というものがいる。人間には名前というものがあった。その人間のそれは、ミシタというものだった。
長い行列の先にあったのは、あまり美味しくないラーメン屋だった。待っている間には、鞄からスマートフォンを取り出し、経過した時間を見て、ツイッターのタイムラインを見て、またしまうという動作を五回繰り返した。手前に並ぶ男と女は親しげに話し続けていた。私はそれを、聞くともなく聞いていた。
私の会社で人事異動が行われたのは、つい最近のことだ。新たな上司となった男によって、同僚たちの結束力は高まっていた。つまり、皆が口々に不満を述べた、ということである。上司の男には、彼が引き連れてきた手下のような男がおり、体の前で重ねた手をすり合わせていた。まるで蠅だ。
私は、その男の話を聞いていた。時計の針が一定の速度で動いていたとしても、主観におけるカイロス時間は伸びに伸びていた。退屈だ、と口に出してしまえたら、そんな人間に生まれていたら、どれほど気楽だっただろうか。どうしても傍から見たら親しげ、そのように振る舞ってしまう。その内に、私たちが並んでいた行列は短くなった。扉の手前まで来て、そわそわし始めた男の口は開かれなくなった、やっと。
私はバイトをしてます、「らっしゃいせー」。"いらっしゃいませ"って長くないですか?私は、「しゃいせー」でも良いと思ってます、それか「せー」。でも、「せー」って言ったら社会的にマズそうだし、店長にも怒られそうなんで。それぐらいはわきまえているつもりなんですけど、そもそも社会ってなんなんですかね。私は高校生なんで、そういうのは知りませんね。あ、しゃいせー。
ラーメン屋の朝は早く、しかし眠たい目をこする暇もないほど店は混雑している。ありがたいことだ。家に帰れば、生まれたばかりの娘が待っている。男女二人組のお客様が頼んだのは、ウチの看板メニューである「醤油とんこつ」と、「開運みそカレーバター」。さあ、と一呼吸。気合を入れてから、麺を鍋に入れた。
宇宙が違えば出会わなかった私たちは、宇宙が同じだったから出会ったと言えるのだろうか。いや、別の宇宙では私が彼であり、彼が彼女であり、彼女が私だったのだから、すでに出会っていたと言えるのかもしれなかった。つまり私たちは、それぞれの私を交換して遊んでいるだけの存在だったのに、なぜか好感を持ったし、嫌悪感を持った。私は、別の私を見ていたのだから、それは確かに私への感情だったというのに。
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