ブログ「いらけれ」

読んだもの:柴崎友香「てきとうに暮らす日記 12」
見たもの:集まれる人集合! フレンチトーストを食べる会 【YouTube Live 「ヨーロッパ企画の生配信」 @ヨーロッパ企画公式チャンネル】春風亭一之輔の10日連続落語生配信 第一夜(初天神からの、なぜか大岡忠相大活躍!という、すごいものを見た。「団子屋政談」って演目なんですね)/◎ぷらすと×アクトビラ #1373「SFと現実」
聞いたもの:東京ポッド許可局「年齢当てゲーム論」/僕おも「ブレスト短歌:ピーマンとクルミを和える」

デスクの灰色は、敷かれているマットの緑で上書きされていて、引かれている白い線にそって、私がカッターを動かしていくと紙が、一枚としてあった紙が、必要な部分と切れ端に分けられる。社会に引かれた線にそって、カッターが動かされていく時、私は切れ端として……左足のこむら返りで目が覚めたが、眠りが勝ってまた夢に戻る。朝起きて布団から立ち上がると、ふくらはぎに小さな痛みが残っている。

能天気に笑っていた私の隣で、辛い思いをしていた人がいたと知って、朝からぼんやりしてしまう。とても恥ずかしい気持ちになる。いつだって、なんでも分かった気になっている。分かった気になっているだけだということを、いつだって忘れて、だから笑えている。

これまでの人生を、真面目に反省してしまう。他者との関係において私は、ずっとアウトボクシングをしてきたのだと気づいてしまう。それは、自分が傷つかないために。相手に嫌われないために。今さら分かっても、この通り周りには誰もいなくて、もう手遅れだよ。

そんな人間の上の空も、青くて広いから安心する。つまり、青い空の写真を撮って、ポエムを付けるような態度が足りないのではないだろうか、と思う。美しい景色を見て感銘を受ける、記録する、誰かに見せたいと思う、そして、そのすべての気持ちを言葉にする……それは恥ずかしいことではない、馬鹿にされるようなことではないのだ。

そんな気持ちで上を見て、へえ、裏はこうなっているのかあと思う。ヨーロッパ企画の暗い旅「裏を見ていく旅」じゃないけど、やっぱり、見えているところを見て、すべてを見たつもりになっている。この白いアパートの、ひさしの裏側には、格子上の銀色の換気口のようなものが付いているのかあ。

そのまま歩いて、一つの声もない小学校の校庭にぐっときてしまって、校庭の全体が見渡せる小さな公園のベンチに座る。十全に生きている。そんなつもりになっている。音楽を聞いているからかもしれない。だいたいのことは、音楽聞いていればなんとかなる。

息を潜めて 夜を越えた ひとりで越えた
僕らはみんな ひとりで越えた


髭『闇をひとつまみ』"CLUB JASON 2014″

時間が経って、歌詞の聞こえ方が変わってしまった。変わって聞こえるような時代になってしまった。立ち上がったら胸のあたりにぶつかった風が、心地良いと感じられたのは、やはり音楽のおかげだろう。歌詞の聞こえ方が変わるように、音楽を聞くことによって、聞いた私の感覚が変わる。日常にさまざまなフィルターをかけて、少しだけマシにして、死ぬまでこうやって生きて、そして死ぬ。

ブログ「いらけれ」

聞いたもの:Session-22「『認知行動療法』とは?」(いまが辛い人におすすめ。リンク先で聞けます)
読んだもの:◎いとうせいこう、星野概念『自由というサプリ』(笑って泣けて、何より気が抜けていてサイコー!)
見たもの:人文的、あまりに人文的 #008 2020年4月号別冊「パンデミック」/『疫病と世界史』『ペストの記憶』

お知らせしていたオンライン対話の会が、無事(?)終了いたしました(パチパチパチ)。いかんせん不慣れなこともあり、イレギュラーなこともあり、反省点を挙げろと言われば無限に終わらないだろう、けれど、会は終わったのだ。終わったことは反省しません。誰かと誰かと誰かの間で、真ん中に立つことを引き受ける主体として、少しずつ頑張っていきたいところだ。

外に出る。たったそれだけのことが、大きな意味を持つような世の中になって、天井を見つめる時間が長くなって、いろんなことがすごくはっきりしている。とても残酷だと思う。電車に乗って映画や落語を見に行けば、なんかつながっているような感じで、普通の顔をしていられたのにね。金がないと快適に過ごせないことも、友だちがいないと愉快に暮らせないことも、一人の部屋で浮き彫りになっている。世界は階級で出来ている。でも、そんなの当たり前のことだ、だけど、気づかないふりをしていた、していたのにね。

雨上がりだから人も少ないし、なんだかすべてを洗い流してくれた後みたいな感じがして、清々しい気持ちになっている。濡れた墓石が並んでいる。木立が落とした枝を入れておく大きな箱の向こうから、白と黒の猫が顔を出して、私は、猫を見ている時には悪い気分にならないな、と思う。猫は、我が世の春を闊歩して、墓石の向こう側に消える。
私の横を、颯爽と自転車が走り抜けたとき、褒めるときは本音だと思った。うまくない料理に当たったグルメレポーターが、「独特な味ですね」とか「好きな人には堪らないでしょうね」と言うように、大多数の人は、嫌いな人をストレートに褒めないのではないだろうか。それは私もそうだ。
でも、褒められた私は、その言葉を偽物だと思い、後から来る批判や指摘を本物だと思う。あまつさえ、批判するために褒めたのだろうと思う。批判や指摘が嘘だと言いたいのではない。それも本物ならば、褒める言葉だって本物なのだ。そう思っていれば良いのだ。あの猫のように、胸を張って。

多少 ズル賢くなって
なんて健全な僕だ


FoZZtone「暮らそうよ」

勘の良い人なら、今日のタイトルは予想できたかもしれないね。暮らす、クラス……。

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読んだもの:相沢直「医学部平凡日記 20200410-20200416」柴崎友香「てきとうに暮らす日記 7~11」(10で、ボブ・ディランのことをボブさんって書いているのがとても良い)/細馬宏通「ライブの家が鳴る(神田試聴室ライブのあとで)」(最後まで読んでほしい)

暇だから、インターネットで文章を読むようになって、本当に素晴らしい文章がたくさんあって、こんな状況じゃなければ、それはとても良いことなんだけど。

なんかもうちょっと書き方を変えたい。もっと面白いと思ってもらえるものを書きたい。

中学校に行ってなかった私は、高校生になって携帯電話を持てるようになって、初めて持った時は感動していたのに、すぐに嫌になった。

JスポーツでWWEを見て、見ていられない。どうしても練習に見えてしまう。観客のいないプロレスにおいて、ヒールとは何だ。会場へのアピールが虚しい。でも、こういう時こそ支えなければ、とも思う。実際、レスラー(スーパースター)が大量に解雇されたという悲しいニュースも見た。
でも、ネットの有料番組は見ないけど、なぜかTVKでやっているダイジェスト番組は見るとか、そういう付き合い方が丁度良いと感じている自分もいて、でもそれだと、団体が潰れてしまうかもしれないし、そうしてなくなってしまったもの、やめてしまった人をたくさん見てきたじゃないかという思いもある。難しい。

高校時代の昼間は青空で、陽の光が強烈だった、そんなイメージが残っている。グレーのスラックスはチェック柄で、後ろのポケットに薄い文庫本を入れる。電車は空いているから座って、舞城王太郎とか町田康の、尻の形に合わせて曲がった小説を取り出しして、読むのがかっこいいと思っていた。

ヨーロッパ企画の暗い旅「スピードハンモック選手権の旅」を見て笑って、パソコンの前に移動、ストリーミングで「LL教室の試験に出ないJ-POP講座」を聞くという、今人生で一番楽しみにしている土曜日の深夜を堪能しつつ、DELIが松戸市議なこと(いつどこで知ったのか分からないけれど、知っていた)とか、大木兄弟や菊地成孔が千葉出身なこと知っているよ!って思っていた。でも、ツイートできなかったのは、自分が見ている人、ステージの向こう側にいると思っている人から、こちらを見られる、存在を知られるのが苦手な人だからで、そういう人はやめて、気軽にツイートする人になろうと思った。

楽単の朝は早い。一限目には詩歌についての講義があり、はじめに配られる紙に名前を書いて出せばもらえる単位のために、誰もが席につき、そして、腕を枕にした。教授の話は続いていて、その間、後ろの方に座った私は、大学生になってガラケーから機種変したスマートフォンで、『実験4号』の歌詞を検索して、読んでいたというこれが記憶なのか、はたまた夢なのか、定かではない。

ブログ「いらけれ」

見たもの、聞いたもの:高橋源一郎の飛ぶ教室「言葉の力、本の力」/ダースレイダーxプチ鹿島「#ヒルカラナンデス 第1回」東京マッハ オンライン「國難ニ際シ句會ヲ配信ス」(19日までの限定公開)◎ヨーロッパ企画の暗い旅「絶対に絶対に置いていってはいけない旅」(名作!)

相変わらず何もしていない。時間を食う虫が、部屋に巣くっているとしか思えない。日付が変わっても終わらない仕事に、午前中には開かない目蓋。気づけば開いているユーチューブとツイッター。虫が住んでいるのは、部屋ではなく、この頭だ。

桜の終わりが春の終わりではないのに、散った花びらを見て感傷的になる。中学校の裏門の前を通るのは、何かを配る郵便配達のバイクだけだ。バイクは、堆積した花びらを踏んで行く。雨で濡れ、路面にぴたりと貼り付いているその数が、とても多いと感じる。蹴散らす、踏み荒らす人が少ないから、散ったまま残っているのだろうか。真実は分からないが、どうしても今は、すべてを結びつけてしまう。

季節は変わり続けるもので、毛玉には「花粉症」という名曲があるけれど、自転車道にはジャージを着たランナーがいっぱいいて、並木からは水滴が落ちてくるけれど大丈夫、帽子を被っているから日差しも気にならないし、スーパーマーケットで大根と鶏肉を買う頃には、もう春は過ぎ去ったという気分になっている。
今年は鼻炎薬をほとんど飲まなかったけれど、鼻水やくしゃみに悩まされることは少なくて、花粉症が治ったということはないだろうし、やっぱり出歩く機会が減ったからだろうか。それとも、私や家族がウイルスに気をつけて暮らしたから、たまたまそれが作用して、吸い込む花粉の量が減ったのだろうか。口元でマスクが前後する。鼻と口と、あと肺だなって思う。何となく、身体のこのあたりが肺の終わりかなと想像すると、そのあたりがむずむずする。

ZOOM飲み会の話題を、ツイッターで見かけるたびに胸が痛くなる私にも、ZOOMを使う機会はあって、デリカシーに期待するのは諦めたから、防音テープを買った(自分の話し声で、迷惑をかけないためでもある)。二十年近く住んでいるけれど、部屋の扉と壁の数ミリの隙間を気にしたことなんてなかった、長電話もそれほどしたことがなかったから。それは、ZOOM飲み会に誘われないのと同じ理由か。頑張ってテープを貼ってみたけれど、いまいち効果は実感できなかった。

生きていたら、百年に一度の出来事に二回ぐらい遭遇するだろうという気持ちで、前を向いている。いまや、集うことさえ禁止されている。2020年は、2011年のように、死ぬまで忘れられないのだろう。常に想像以上がやってくる現実では、バリケードが、ビニールカーテンが、アクリル板が合理的で、これまでの世界には、もう戻れない。