ブログ「いらけれ」

スーパームーンも見えなかったし、いつも通りの東村山市は、何一つ変わらないというふりをして歩く。そもそも人混みなんてなかったけれど、それでも行き交う人々の距離が、それまでより少しずつ開いているのが分かって、なんだか辛くなる。飲食店のガラス窓には、必ずといっていいほどに貼り紙がしてある。アクションを起こさないと、フッド(地元)が終わってしまうかもしれないと思う。

いや、もう終わりは始まっているのか?東村山駅の本屋は、来週の金曜日に閉店するらしい。かつて駅前にあった「あゆみブックス」に思い入れがあった私なので、それのオープンが閉店につながったかどうかは定かではないものの、どこか目の敵のように考えていたところはあったけれど、駅の近くに本屋がなくなるというのは、さすがにやばいと思う。届かなくなってしまう文化が、必ず生まれるはずだから。

とはいえ、普段本を買うのはインターネットばかりだ。今日もセルフレジを使った(それは、私が店員さんに接触しないためでもあるし、店員さんが私に接触しないためでもある)。仕事の大半はリモートワークで、友人ともLINEやZoomで話している。

「感染症の大流行で露わになったのは、他者という存在に潜んでいるリスクなのかもしれません」というリード文を書いたのも、「他者はリスクか?」というテーマを考えたのも私のオンライン対話の会が、4月19日に開催される(詳細はこちら)。詳細不明な他者が、とても危険な存在に感じられてしまう世界/社会が到来したときに、「会わなくて良いなら……会わなくて良いじゃん?」という思いと、そう単純には割り切れないという思いに引き裂かれる私たちは、どうやって生きていくのだろうか、といった難しい話はしないルールになっているので、安心して参加してもらえると嬉しい。

さらに言えば、会の進行をするのも私だ。恐ろしい話だ。すでに二回ぐらい経験しているのも恐ろしい。大変さを知っているだけに、より恐ろしいということだ。頭の使い方が将棋に似ていると思う。その先の展開を読みながら、その時その時の最善手を打つ二時間。めちゃくちゃ疲れる。

こう書いてしまうと、言葉のゲームで遊んでいるように思われてしまうかもしれないが、そうではない。もちろん、そういう側面もあるかもしれないという点では、ヒップホップのMCバトルにとてもよく似ていると思う。

詳しくない人からすればMCバトルは、ダジャレの言い合いに見えてしまうかもしれない。しかし、どれだけ上手く韻を踏めたかだけが、勝負を決するポイントではない。どれだけ相手の言葉にアンサーできたか、つまり対話力が問われる戦いでもあるのだ。

進行役を引き受けるようになってから、「対話に活かせるのではないか」という目線で、MCバトルを見るようになった。そして、輪入道スタイルを目指そうと思った。決して相手を見下さない、失敗を攻撃しない、投げかけられた言葉を必ず一旦は受け取る、はぐらかさないで返答する……私が、それを体現できているかどうかは分からないが、MCバトルが人生のためになるのは間違いねえ。