ブログ「いらけれ」


【ライブ配信】ひるねこmeeting~いとうせいこうさんと星野概念さんのトークショー

『自由というサプリ』は早くゲットしなければならないが、通販サイトでポイントが貯まるタイミングを待っている。そうではなく、この動画を見て分かったことと、ずっと考えていることがあって(岐阜の高山にも面白いいことをしている人たちがいるんだなあ。いつか行ってみたいものだ)、つまりはポリフォニー、多声的状況(そんな言葉あるのか?)をいかに生み出すか、それが問題だということである。

いとうの言葉の背後には、当然だが、バフチンのドストエフスキー論があるなどと、知ったかぶって書くつもりはない。私が知ったのは『アイロニーはなぜ伝わるのか?』に出てきたからだし。検索したら、大澤真幸のコラム(『複数の声が溶けあわずにある バフチン「ドストエフスキーの詩学」』)を見つけた。これは非常に分かりやすい。久しぶりに氏の著作を読みたいなと思ったのは一昨日、風呂から上がったときである。

“対話"が目的の場に身を置いて、さまざまな人と話してきた私の実感は、一見優位そうな論理性や、あるいは感情、コミュニケーションの技術ではなく、魂について考えざるを得なくなるというものである。言葉の上では、あらゆることが言えてしまう。「どうして人を殺してはいけないんですか?」と問われれば、道徳的な回答もできるし、悪趣味な回答もできる。それが、私の思いとは離れていたとしても、そう話すことができるからこそ私は、いつでも会話の流れを追っているふりをしながら、人の魂の方を見ている。

魂で伝わらなければ、バイブスを見ていると言い換えても良いかもしれないが、より伝わらなくなっている気もする。MCバトルから物を考えすぎているきらいがある。"浮き足立つな あくまで等身大 そういう言葉にしか 俺は応答しない"という奴である。これを言ったのが、ライムセイバー・FORKであるところが趣深い、と思う。

大きな問題は、誰も魂についてなど考えていないということである。気を抜けば、すぐに道具へと"成り下がる"言葉を、一人ひとりから出てくる声(言葉+魂)にする。そのためには、何が必要なのだろうか。分かれば苦労しないのだが、分からないから苦労しかしない。

とにかく私は、頭でも心でもなく、魂という言い方しかできない何かを真ん中に置いて、話すことにしている。そういう語りをする人がいないからこそ、そうする。世界を拓くための、これは実践である。

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スーパームーンも見えなかったし、いつも通りの東村山市は、何一つ変わらないというふりをして歩く。そもそも人混みなんてなかったけれど、それでも行き交う人々の距離が、それまでより少しずつ開いているのが分かって、なんだか辛くなる。飲食店のガラス窓には、必ずといっていいほどに貼り紙がしてある。アクションを起こさないと、フッド(地元)が終わってしまうかもしれないと思う。

いや、もう終わりは始まっているのか?東村山駅の本屋は、来週の金曜日に閉店するらしい。かつて駅前にあった「あゆみブックス」に思い入れがあった私なので、それのオープンが閉店につながったかどうかは定かではないものの、どこか目の敵のように考えていたところはあったけれど、駅の近くに本屋がなくなるというのは、さすがにやばいと思う。届かなくなってしまう文化が、必ず生まれるはずだから。

とはいえ、普段本を買うのはインターネットばかりだ。今日もセルフレジを使った(それは、私が店員さんに接触しないためでもあるし、店員さんが私に接触しないためでもある)。仕事の大半はリモートワークで、友人ともLINEやZoomで話している。

「感染症の大流行で露わになったのは、他者という存在に潜んでいるリスクなのかもしれません」というリード文を書いたのも、「他者はリスクか?」というテーマを考えたのも私のオンライン対話の会が、4月19日に開催される(詳細はこちら)。詳細不明な他者が、とても危険な存在に感じられてしまう世界/社会が到来したときに、「会わなくて良いなら……会わなくて良いじゃん?」という思いと、そう単純には割り切れないという思いに引き裂かれる私たちは、どうやって生きていくのだろうか、といった難しい話はしないルールになっているので、安心して参加してもらえると嬉しい。

さらに言えば、会の進行をするのも私だ。恐ろしい話だ。すでに二回ぐらい経験しているのも恐ろしい。大変さを知っているだけに、より恐ろしいということだ。頭の使い方が将棋に似ていると思う。その先の展開を読みながら、その時その時の最善手を打つ二時間。めちゃくちゃ疲れる。

こう書いてしまうと、言葉のゲームで遊んでいるように思われてしまうかもしれないが、そうではない。もちろん、そういう側面もあるかもしれないという点では、ヒップホップのMCバトルにとてもよく似ていると思う。

詳しくない人からすればMCバトルは、ダジャレの言い合いに見えてしまうかもしれない。しかし、どれだけ上手く韻を踏めたかだけが、勝負を決するポイントではない。どれだけ相手の言葉にアンサーできたか、つまり対話力が問われる戦いでもあるのだ。

進行役を引き受けるようになってから、「対話に活かせるのではないか」という目線で、MCバトルを見るようになった。そして、輪入道スタイルを目指そうと思った。決して相手を見下さない、失敗を攻撃しない、投げかけられた言葉を必ず一旦は受け取る、はぐらかさないで返答する……私が、それを体現できているかどうかは分からないが、MCバトルが人生のためになるのは間違いねえ。

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今日もやったことから数えていこう。
読んだもの:千葉雅也×保坂和志『デッドライン』刊行記念トークイベント、◎木原善彦『アイロニーはなぜ伝わるのか?』(ある意味では種明かし的だ、しかし、そこから新たな手品が生まれてくる感じ。本文中に出てくる「スペクトル派」が、検索しても一つの情報も出てこなかったから、新しいアイロニーなのかと思った(英語版のWikipediaを探したら記事があった)。だいたいのことは、日本語で情報が存在していると思いがちだが、それは勘違いである)
聞いたもの:細馬宏通先生のツイキャス、FINAL SPANK HAPPYのインスタライブ(ともに4月6日)(菊地さんが郷ひろみを歌っていた)、東京ポッド許可局「この志村けんが好き論」、シブラクポッドキャスト「神田鯉栄 扇の的」、文化講演会「映像作家が旅する西アフリカ」

最近のYouTubeのひどい広告のように、あなた(と指を差される私)が、どれだけ足りていないかを思い知らせる(思い知らされる)映像や文章はたくさんあるけれど、あなた(私)が何を持っていて、どれだけ何をやっていて、それがいかに素晴らしいことかを、それとなく教えてくれるコンテンツなんてなかったから、自分で生み出すしかないと思って、こうして記録を付け始めたら調子が良くなってきた。
現代を特徴づけているのは、読んでいない名著や見ていない名作、聞いていない名曲や行っていないイベントがもたらす欠落の感覚と、それが生み出す「あれを、これをしなければならない」という強迫観念だろう。私たちは、"欲求"による"消費"へと急き立てられているのである。
と、難しいことを考えるまでもなく、あなたも何かをしている。何もしていないとしても、何もしていないをしている。つまり、人間にとって非常に重要な休息をとっているのだと考えれば、あなたも何かをしている。そして、三十万円の貯金はなくとも、一万円ならば持っている……みたいな。
しかしこれは、「現状で満足しろ」というメッセージではない。というか、そういう意味ではないと強く言っておきたいし、言っておかなければならないだろう。まずは、持ち物を確かめること(それは忘れてしまいがちな)。それから、何が足りないのかを知ること(それは絶対に必要な)。最後に、どのような"贅沢"を楽しめば良いのか考えること(それは絶対に不必要な)。
世界の秩序は大きく変わってしまったとしても、人生の意味/無意味は変わらない。だから、辿るべき経路は一つだ。

教会の礼拝も中止で、インターネット配信をするという。鍵のかかった部屋でも救済される時代ならば、それはそれとして受け入れるべき……なのだろうか。

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木原善彦『UFOとポストモダン』、本論の最後の方に「新たな異質なもの(エイリアン)は、災害や伝染病に対するパラノイア的な不安という形で虫かウィルスのような姿で現れることになるかもしれません」と書いてあって、ゾクッとしました。

ねー。なにがなにやらですねー。大胆かつ思い切ったなにかを、速やかに行うということだけが分かった。それ以外のことは何一つ分からない私は、そこにいる人々と社会的な距離を保ちながら歩いていた。
それでも子どもたちは、団地の公園に大勢集まって遊んでいたから、同じはずの世界も一つではなく、一人が一つの世界を持っているとさえ感じる。それ以前であれば、なにも思わなかったであろう光景が、大きな意味を持って私の元にやってくる。壊れてしまったのは幻想、あるいは物語だったのかもしれないけれど、その幻想や物語は、とても大事なものだったのかもしれない、とも思った。

SNS以降で初めての、インフルエンサー時代のパンデミックについて、考えるべきことはたくさんあるのだろう。難しいことを考えるとき私は、人差し指の腹で側頭部を強く押す癖がある。あと腕を組んで、その左手を顎まで持っていって、口元を隠す癖がある。ただ考えているふりをして、そのフォルムまで考えている自分が苦手だ。そういうところがあるから、Zoomのアカウントを取得したところで、通信する相手がいないのだろう。テレワークという言葉に触れるたびに、テレビがテレビジョンであることを思い出す。接頭辞のtele-は、遠くを意味しているらしい。目の前にテレビがあり、パソコン(と仕事)があり、電話があるのに、すべてが遠く。本質は向こう側にあって……私たちの側にあるのは……幻?

同じものが浮き彫りにするのは違いで、同じチェーン店、同じブランド、同じiPhone、同じ病なのに、こんなにも違うということが嫌なのかもしれないですね。我ながら真面目だな。その真面目さゆえに疲れてしまった私を救ったのは、細馬宏通先生のツイキャスだったりするわけで。新しいことに向かうエネルギーと、(非)日常への鋭い洞察と、優しさ。無意識的なメランコリーから逃れられた私が、誰かを助けていたりもするのかもしれないと思うから、もう少し日記を書き続けようと決める。そうして元気になったあなたが、どこかで誰かに元気を分けたら良い。

今日聞いたもの:文化系トークツイキャスLiveの後半、米粒写経公式チャンネル「シャーロック・ホームズの"爆笑"世界」「世界史スーパースター列伝 君主編」、僕おも「川柳はパターゴルフ」、カルチャーラジオ文学の世界「柳田國男と"遠野物語"」1