ブログ「いらけれ」

個別の作家に対して、特に新井素子(中でも『……絶句』)と押井守(中でも『機動警察パトレイバー2』)対して、非常に興味が湧いたというだけで、それだけで読んでよかったとも思うのだけど、いや、東浩紀『セカイからもっと近くに』を読み終わったっていう話なんですけどね。
しかし、人生で初めてこの四字熟語を使いますが、「牽強付会」では?と思うところもあった。批評(文芸評論)なんて、そんなもんなんかもしれんけど。読みやすさゆえ、するすると論理構造が入ってくるだけに、さーっと読んで、うんうんと頷いて、ちょっと間があって「……無理ない?」って二度見する感じだった。それは結論に対してもそうで、とても説得的で説き伏せられるのだけど、よく考えてみると「セカイを乗り越えていないのではないか?」という、なんだか奇術を見せられたような、腑に落ちなさが残った。面白かったけど。

さて、次はフランコ・カッサーノ『南の思想』へ。訳者が書いた「はじめに」には、元は1996年に出版されたもので(僕が読んでいるのは、2005年に出た増補新版を翻訳して、2006年に日本で出版されたもののようだ)、出版当時「カルト・ブック」と見なされたほど、熱狂的な共鳴者を生み出したと記してあるけれども、どうだろうか。面白く読めるだろうか。読み終わり次第、また報告いたします。

ここで「凍った口笛を吹く少年」などと書けば、簡単に感じが出てしまう。なによりもまず語り口を見つけること。日本には台風が、それと関係あるのかどうか、突然の大雨が、大きな音を立てている。テレビには将棋の中継が映っている。ネットで配信されているものを、そのままテレビで流しているという理由によってなのか、解説をしているとブロックノイズのようなものが出て、一瞬止まったりする。対局を映した画面の駒台の上の辺りには、名前と段位だけでなく、手番、先後、それに加えて対局者の顔が表示されている。適切というのは難しい。見た目の良さまで考えるとなると、さらに難しくなる。よく、日本の映画のポスターが、近隣諸国のそれと比べて著しくダサいと話題になる。過剰な宣伝文句や、こてこての意匠が。しかし、30年後にはそれがクールだと思われて、評価されているかもしれない。現在の、シンプルを信仰するような価値観だって、いつかは変わるのかもしれない。簡単には、良いとか悪いとか言いたくない。言われたくもない。

YouTubeの動画の広告にNetflixとは。もう、コンテンツは無限にある。だからこそ、面白いと言われているものでなく、面白いかどうか分からないものを見ていきたい。ベストセラーに納得するより、古本屋の掘り出し物に期待したい。ところで、最近の鼻歌に、ストロークスの「Someday」の「My ex says I’m lacking in depth」ってところばかりが出てくるんですけど、これは何を意味しているんでしょうか。僕の無意識は何を訴えかけてきているのでしょうか。確かに、僕に深みはないけど……。

The Strokes – Someday (VIDEO)

ブログ「いらけれ」

先日公開いたしました「特別編-対話のボイスメモ#3:ボイスメモを公開する。」の、放送後記的なものです。第三回です。
まだお聞きでない方にはぜひ、この回だけでも聞いていただきたいです。ここから聞いても大丈夫ですよ。

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ブログについて
「書きあげるまで、書けると思ってなかった」っていい言葉だなあ(自画自賛)。実は芸術の肝はそこにある気がする。どんな作者だって、作品を作る前は作れると思ってないんですよ、きっと。
人生が、芸術の側にフラッと"傾く"ということ、それだけが人生において素晴らしいと思っている節があり、また、それこそが楽しいんだという思いがあり、とにかく「書いてみほ」ということしかないですね。あと、ブログのネタバラシというか、結構裏側をしゃべっていて恥ずかしい気もしないでもない。ブログを真に受けないでほしいというのだけは念を押したい。
(あ、それと、言いたかったのは「空」ではなくて、能の「離見の見」です)

観光客の倫理について
多摩川のバーベキュー客問題から、観光客の非倫理的な振る舞いについてなど。これは、例えばインターネットの匿名問題(匿名ならば何でも言えてしまう)なんかにも繋がっているなあ、と話し終わってから気付いたりもしました。めちゃくちゃ政治的なこと言っているが、これはそんなに恥ずかしくないのは、とても大事な問題だと思っているからなのでしょう。ナショナリズムの隆盛の理由の一端をここに見たりしています。僕の思想のテーマは、「責任が無くても、倫理的に振る舞う」にはどうすればいいか、どういう仕組みを作ればいいかということだったのですね。この時に気付きました。あと、後ろで何かが削れています。

芸術の再現不可能性について
すっごーいぼんやりした質問をしてしまった!とにかく僕が「芥川賞を取りたい」として、芥川賞受賞作から、その受賞した理由?受賞するほど素晴らしい要素?を、どうやったら取り出せるのでしょう?という話。模写や剽窃ではない形で、あの小説の「いい感じ」を再現することは可能なのだろうか。自分のブログではそれをやっているつもりなのです(え!そうだったの!!)。ただ、名作といわれるような作品を書いた大作家でも、その後に、駄作ってしまう(そんな言葉はないけれども)こともあり、「そういうお前(芸術)の一筋縄ではいかないところが好きだよ」って芸術に言葉をかけたいですね。

次回予告
帽子の話
好きなものコーナー
次回について

波乱の第四回、はてさてどうなってしまうのか……必聴だ(?)

ブログ「いらけれ」

私たちが尊ぶべき人間の尊厳について……あるいは「汝の敵を愛せよ」という最も難しく、最も尊い教えについて……それは教えてはいけないし、教わってもいけないのである。なぜなら、「教えられたことを守る」、「教えられたから守る」というのでは、それは人間の尊厳を尊重することにはならず、ただ規則に従順であり、ルールを守っているだけの、違反にびくびくと怯える生徒に成り下がってしまうからだ。これらの教えは、自ずから湧き出るように思わなければならないし、心の底から信じなければならないのである。
しかし、教えるしかないし、教わるしかないのである。それは、私たちの内に生まれつきあるものではないからだ。それは、共同体の内に育まれた「教え」であり、それは、共同体の人々によって育まれた「教え」だからだ。つまり作られたものなのであって、実際は、奴隷やホロコーストといったあまりに酷い失敗を踏まえて、私たちが尊重することにした「合意」なのであり、私たちの後から来る人々には、なんらかの手段を通じて教えていくしかないのである。
私たちは、この最も難しい教えについて、次の人々に教えながら、しかし、教えられた人々が、教わったと思わないように、つまりその心の内に元からあったものだと確信できるように、その由来を消すような教え方をしなければならない……無理難題だと思われるだろう。確かに。だが、この企てを諦めてしまったら、共同体は形を無くし、散り散りになった人々の群が残ることになるだろう。

あー、真面目な人と思われそうだー。恥ずかしいー。ぼくは「WWEのグッズ欲しいのいっぱいあるなー」としか考えていない、頭の中にはそれしかないのにー。アスカの新しいTシャツ(背の日本語のフォント、なんとかならなかったんか)とか、エディのレトロTシャツ(かっこよすぎる……)とかー。でもいっちゃん欲しいのは、アンディスピューテッド・エラのTシャツと、ウーソズ(公式的にはウーソーズ?)の帽子で、これ、どっちもめっちゃかっこいいんだけど、どっちも日本の公式のオンラインショップにはなくて……「やりなおし!」って感じ!!


椅子の美学【WOWOWぷらすと】

最近見て、良かったのはこれですかねー。一応、もうすぐライターをやることになっていて(すぐやめるかもしれないけど)、自分の人生の未来について、もっと幅広く考えたほうがいいのだなーと思わされました。イスひとつとっても、そのデザインには、例えば作られた国の風土であるとか、デザイナーの思惑といったことが詰め込まれているのだ、という解説がすごい面白かったんです。僕のやりたいことって正にこういう深掘りで、文学や音楽といったレッドオーシャンじゃなくても、イスやこけしのようにどちらかと言えばマージナルな世界にも、やりたいことができるフィールドがあるのかもしれないなと。ただ、なんでもいいってわけじゃないだろうし、楽しくない分野もあるのだろうと思うし、自分が興味を持てる世界を探していく必要は感じました。

ブログ「いらけれ」

気がついたら明るくなっていて、窓を開けたら涼しい風が通り抜けた午前5時に頭を抱える。ブログがあまりに書けない。文章を書くことは難しいと思った。書いて意見することの本質的な虚しさというか、書けることなんて単純なことで、現実は複雑で、複雑な現実のようには書けない。単純に切り取ることが、なんだかでっち上げのように感じてしまって。しかし、そんなことを言っていたらブログの更新が途切れてしまうし、そんなの潔癖すぎると思うから、とにかく、解きほぐすように、ここ数日にあったことを書いてみようと思う。そのためにはまず、思い出してみようと思う。
今は、東浩紀『セカイからもっと近くに』を借りて読んでいる。この瞬間、この偶然目に留まった瞬間に借りなければ、僕の興味や関心からして、一生読まないだろうと思ったから。アンドレ・コント=スポンヴィル『精神の自由ということ』を、返却期限ギリギリに駆け足で読んで(第三章から、予想していなかった結構スピリチュアルな議論が始まってビックリした。あと、図書館に氏の著作が2冊もあってビックリした。僕が返却した今は3冊になっているはずだ)、また新たな偶然を求めて、いつもと違う市内の少し遠くの図書館に行った。その本の並びの違いが楽しかった。そこで、フランコ・カッサーノ『南の思想』というのも借りて、これは図書館でパラパラと捲って面白そうだったから、今から読むのが楽しみだ。
しかし、図書館とは挫折である。あの名作も古典も、気になったタイトルの本も、死ぬまでに読めないのだと、背表紙に言われているみたいだ。まあでも、死ぬまでに読めたものだけが、死んだときに読み終わっていたものになるだけだ。全ての本を読むことなどできないし、それはそういうもので、しょうがないのだと思わなくてはならない。
しょうがないと思えないのは、汚れについてで、他にも借りようかと思った本があったのだけど、あまりに汚かったのでやめてしまった。皆のものである本を汚せる人が信じられない(心が狭い)。それは自分が、借りてきた本を必要以上に恭しく扱っている(その丁寧さを見せたいくらいだ)からだろう。
そんなことより『セカイからもっと近くに』である。その内容については、まだ半ばであるから言及しないが、その文章の読みやすさに唸った。読みやすいから良いというわけではないが、最近「晦渋な」というかなんというか、海外の思想書というのもあると思うが、ストレートに入ってこない文章ばかり読んでいたから、明快で読みやすいのは助かる。
でも、今の気持ちとしては、あれらの思想書のように、その翻訳文のように書きたいこと(ネタ)があって、それは本を読みながら思いついたことだ。どうしたらあのように書けるだろうと、その書き方に悩んでいて、筆が止まっていたという事情もあった。もちろん自分の能力ではできないことはあって、しかし、そこに挑まないのならば、お金をもらって書いているわけでもないのに、せっかくこういう場所があるのにもったいないという、そういう気持ちがある。でも、簡単には書けない。
こんなことを、言葉を検索して誤用しないように調べながら書いていたら、Googleの、あのタイトルの下の説明文みたいなやつに引かれて、線維筋痛症という病にかかっている方の手記を、本当にたまたま見つけて(「線維筋痛症友の会 手記04」)、読んで、心を動かされた。その大変な告白に対して、「感動した」などと容易には言えないが、しかし、それに近い感情を抱いたのは確かだ。自分の書くものなんて、あらゆる意味で足元にも及ばないと痛感する。しかし、それならばこそ書いていくしかないし、明日には書けるかもしれないと思った。