ブログ「いらけれ」

「渡部直己氏の問題と教育と批評 : 矢野利裕のEdutainment」
文芸評論業界、あるいは文壇と呼ばれるものにはとんと疎く、ただ問題が起きていることだけは知っていて、誰が何を言うのかについて、それなりに注目はしていた。
もちろん、何か事件が起きたからといって、過去につながりのあった人はすべからく発言すべき、なんてことはないって、こんなことをわざわざ言わなければならないのが、めっちゃ現代っぽいわけだけど。
まあ、旧態依然とした"業界"が温存してきた悪しき構造に、告発によってメスが入っていくのは必然だと思えて、元々がおかしかったのだろうから、こういうことによって環境が変わっていけばいいなと、部外者はこれくらいしか思わない。
僕が、この文章で感銘を受けたのは、やはり教育についてで、「そこで受け渡されるものは秘伝の教えなのだ」みたいな言い訳によって、ずぶずぶの関係やゆるさが許容されていた大学的なものとは違って、中学校という知識人の知りえない現実の現場で、もっと誰にでも開かれたものでなければならない、それでいて使える手段が限られている、しかし、教えるんだという矛盾の最前線から放たれるその言葉は重い。そして、そこで批評的な専門知を伝授していくことこそ必要な実践なのだというハーコーな姿勢と態度が、とてもいいなって思った。

本当に暑くて八月みたいな七月だ。ポッドキャストのためにしゃべりながら、自分が焼けていくのが分かったし、腰かけたベンチは灼熱だった。八月になったらどうなってしまうんだろう、東京。鞄を開けて、水を取りだした。そのとき、それは起こった。
僕には、言えないことが多すぎる。書くと恥ずかしいというのもあるし、書いて伝えるだけの力量が足りない。僕の体、心、身辺、人生。ネタになるような、作家ならネタにするだろうアレコレを、これだけ隠していて、むしろよくこんなに書けているなって、才能あるんじゃね?って思わなくもないほどだ。
僕は、人生の真実を、死ぬ前に書き残すことができるだろうか。心が割り切れる速度、実力がつく速度と、死が競争をしている。

【音声配信】「ロックじゃなくて、ソウルだから・・・」荻上チキの髪型をどうするか?でチキ&南部がトーク▼2018年6月27日(水)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」)
(態度として)「ロックだね!」(音楽ジャンルとして)『いや、ロックじゃなくてソウル……』という珍しい齟齬のやり取りを想像したら、おかしくって笑った(詳しくは、音声をお聞きください)。しかし、二人の髪型史おかしいでしょ笑。まあ、そういう狂気が心の内にあることは、ずっと聞いてれば分かってたけどね!むしろ、だから信頼できるって気もするんだ。僕にも狂気があるからね。

ブログ「いらけれ」

「強豪国の苦戦が目立ったグループリーグ 効かなくなったハイプレスと撤退守備」
「必然のギャンブル?ポーランド戦、日本はなぜ機能しなかったのか?」
ワールドカップのグループリーグにおいて強豪と目されていた国が苦しんだ理由、しかし、弱小国が勝ち抜くまでは至らなかった理由と、日本-ポーランド戦についての詳細なマッチレビュー。どちらも明晰で、かつ面白くて、サッカーライティングの世界のレベルの高さと、その厳しさを思った。僕はサッカーライターにならないからいいけど。
さて、ポーランド戦の、あの最後の10分について、美学的に相違した意見があふれていることは、まあそれでいいじゃない?って思う。何を良しとするか、多様な方が豊かだからね。それはよくて、でもあの10分間について、「つまらなかった」という意見に対しては、僕とは違うなと思った。
スポーツだけじゃなくて、何かのライブだとかステージでもそう、そこでは超絶技巧や劇的な瞬間が見られることがあるだろう。それが見たいという気持ちは分かるけど(もちろん、僕だってそれも見たいけど)、観客としての喜び、面白みってそれだけなのだろうか。
誰かが失敗したり、とちったりする瞬間、いや、そこにも届かない停滞、空白の瞬間。ずっと見せられたら辛いだろうし、お金を払って見たくないという思いも分かる。でも、最後の10分、日本の選手と監督の表情や、ポーランド選手の動き、実況や解説が何を言っていたのかとか、その細かな変化や情報を集めて、自分なりに行間を読むことだって楽しい。そうやって自分なりの想像の物語を紡ぐことだって面白いはずだって、そう言いたい。

ワールドカップを見ていたら、その試合に出ていたある選手が、10年くらい前にプライベートの性的な動画を流出させてしまった事件を思い出して、それで、ツイッターでそれを茶化したつぶやきをしようかと思ったんだけど、寸前でやめた。男だろうと女だろうと、有名人であろうとなかろうと、つまり誰のものであろうと、そうした動画を広めていいわけはないし、そういうことを茶化してしまうような「ネット文化の感じ」こそが嫌いだったのだし、と思って。
寸前でやめたことは、記述されないかぎりどこにも残らず忘れられていく。だって僕以外誰も知らないんだもの。でも、なにかをなしたことより、なにかをやめた、思いとどまったことの方が、重要だったりするんじゃないだろうか。やれ!という啓発はあっても、やめとけ!という忠告は少ないけど、だって、人殺しにはそれこそが必要だったわけだし。

久しぶりに読書すると、本とネット上の記事はなにが違うのかというメタ的な考察も含めて、面白いことがいっぱいある。本当に適当に借りた本に、同じタイミングで借りた本の著者の名前が出てきたり。ヴュナンビュルジェ読んでたら、カイヨワとかホイジンガ出てきたよ。びっくりした。
で、もう本の返却起源まで時間がないですし、考えて発信するよりも、今は取り込む時間な感じなので、この先の数日間、ブログがちょっと短くなるよーというお知らせです。全ページSSL化したらアクセス数が増えていて(二つあったアドレスが統一されたから増えただけかもだけど)、読んでくださっている方々には、大変心苦しいのですけど、「あばばばば」とかで文字数を稼ぐのもアレですから。ご容赦くださいまし。

本棚を見ていたら、完結する前に読むのをやめてしまったマンガ群が目に入った。物語が閉じる前に、もう満足というか、いいやってなったもの。それ以上先に進むつもりのなくなった物語。小説だと、なかなかそういう気持ちにならず、最後まで読んでしまいがちなのは、一冊に収まっているということが大きいのかもしれない。そういえば、BOOK3まである『1Q84』(なつかしい)は、途中で読むのやめてしまった。シリーズ三冊、全部そこの本棚にあるけど。

ブログ「いらけれ」

「僕(たち)は、あらゆる大きな歴史の、その大河の一滴に過ぎない」というのはロマンティックで、結構うっとりできるものだ。甘い言葉。でも、現在の現実は大河ではなくて、ビッグデータの一滴として解析、データとして利用されていく人生だ。そこに、そこはかとなく漂う虚しさ。僕の無法も、偉業も、何したってすぐに情報に分解されて、アーカイブされてしまう。そして次の誰かへ使われてしまう。僕の唯一無二の人生だったはずのものが。
このことからはもう逃れられないのであって、人間は情報の組み合わせではないのだから、データベースに意味はないって、本気で思えていたときはよかったのにね。

少し前の話で恐縮なのだが、第7回「マキタスポーツ食道」にて取り上げられたテーマは、カツ丼だった。番組で話されたマキタさんのエッチな食べ方も面白い(わざとご飯に汁を吸わせて、少し冷蔵庫で冷ましてから食う)のだが、ここでは、こうしたキッカケでもないと紹介しないだろう「カツ丼理論」というものを紹介したい。

星野智幸(作家)×鴻巣友季子(翻訳家) 物語の魅力は終わらない

ここで、星野さんの小説『夜は終わらない』に絡めて、鴻巣さんが説明しているのが「カツ丼理論」である。もとは、龍谷大学教授の廣瀬純さん(実は以前、ブログのフィクション部分の中で、廣瀬さんの言葉から着想を得て書いたものがあるのだ。さてどれか、探してみよう)が提唱したもののようだ。
曰く、あらゆる芸術は「骨=形式、フレーム」と、「肉=中身、内容」からできている。
では、カツ丼(芸術じゃないけど)はどうだろう。カツ丼は大きく見れば、ご飯という骨=フレームと、卵でとじたカツという肉=中身でできている。しかし、さらに分割して見てみれば、卵でとじたカツは、卵というフレームと、カツという中身でできていて、またカツは、衣というフレームと、肉という中身でできている(僕は、「器と、カツの乗ったご飯もじゃん!」って思った)。
つまりカツ丼は、骨であった部分が、あるところでは肉に変わり、肉であった部分が、別のところでは骨に変容している。そしてこのように、骨と肉の関係、形式と内容が質的に変換、変容し続けるものこそが、素晴らしい芸術なのだ、と。(そして、『夜は終わらない』という小説こそ、カツ丼理論に当てはまるのだという。)
これ、面白いなーと思った。いろんなものに当てはまりそう。しかしこれ、完全に書き起こしただけなので、とても申し訳ない。だが、皆さんに教えたいので、ここに残しておく。

気分気分で生きている。今日もラジオを聞きながら、ふとした気分でダイエーへ行ったら、そういうえば100均はなくなってたんだけど(9月から新しく、別の100均チェーンになるらしい)、隣のスペースで売り尽くしセールをやっていて、何気なくのぞいたら、半間用カーテンというのが、とびきり安く売っている。390円。部屋の一角をしきって、ラジオブース(のつもり)にしたかった僕は、喜んで買った。
早速、いや、夕方帰ってきて、野球を見て、ゴキブリが出たので部屋を片づけて、あのすごい試合だったワールドカップ決勝トーナメント一回戦フランス-アルゼンチン戦が始まる前に、もう渡してあった突っ張り棒にかけようとするも、カーテンレールじゃないから構造的にかけられなかったので、とりあえずガムテでカーテンの上を少し折って留めて、その隙間に棒を通した。
かかったカーテンは、そのポップな花柄とは裏腹に、非常な威圧感であって、僕は気圧されながら、これを書いた。

「働き方改革関連法成立。国会音声で問題点を整理 荻上チキ・Session-22」
「けーざいかい」とかに巣くう金の亡者たちがさ、この世にとりつかれ成仏できない魂のように、金にとりつかれているのは、まあ勝手にしてくれればいいけど、力を持ったバカなのは困るよな。逆効果になる制度を作らせるようなさ。まあでも、バカじゃないと金持ちになんてならないし、金は力だから、しょうがないのかもしれない。
しかし、頭がよく利口で、労働者の健康を増進する施策を打ち出すような邪悪が現れたら、そっちの方が怖いような気もするな。

ブログ「いらけれ」

今日、初めてコンタクトフォーム(お問い合わせ)から、スパムメールが来たぞ。なんか英語で、グーグルのポジションがどうの、ドメインがどうのこうのだから、このリンクをクリックしろ、よろしく的な。この、気分はロックンロールレディオショー、実態はチンピラのブログをやってる僕が、そんなのクリックするかボケーってのは、それはそれとして、スパムじゃないメールが、本当のコンタクトメールが全然来ないことが、僕の心を傷つけていたりするのだった。現実の厳しさ。だからもう、読んでる本に書かれてた面白い話は、教えてあげないんだもんねーって拗ねている。

評論や批評について、多産的な人ほど、自分の手持ちの武器で切ってしまいがちで、そういうのもういいよって思う。もちろん映画を見て、じゃあそれをプロレスで語ろうとか、社会学の理論で語ろうとか、そこに社会問題の映り込みを見ようとかというのは、好きだよ?僕も。でも、全部自分の得意なものにこじつけてしまうような人がいて、そうじゃないだろうと。対象を自分の側に引き寄せて理解するだけでなく、自分が対象に取り込まれるような、そういう揺さぶられ方をしようよ。自分が変わらないなら、芸術なんていらないじゃないか。

宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ
この難解な、かなり晦渋な文章をずっと前に読んでからこっち、自分も反応が遅れる未熟児的なところがあるのではないか的なことをよく思う。別にソクラテス的な無知を身につけているとか、そういうわけではないのだが。
常識とか通念といったものに対して、「それはそういうものだ」と、納得してスルー出来ずに、いつも「なんで?」って思ったり言ったりしてしまっていて、これは性分ということなのか分からないけど、常にそうだ。ずっと、自分のダメさだと思ってきたけど、そして基本的にはダメなんだろうけど笑、それも一つの役割だと思って、「もーしょーがない!」と、運命を受け入れていく(しかない!)。

もう面接を受けてから2週間経つというのに、その企業からメールが来ないし、本当にマジギレといった感じなのですが、あんまり怒らずに別の企業の面接を受けたらクソで、本当に出かけなければよかったと思った。梅雨があけたっていうくらいに超暑いのに、わざわざ高田馬場まで行ったというのに!
僕はそういうの余裕だから、怒って、面接中に態度を詰ったり(なんで三人座ってて内二人が仏頂面なんですか?いらなくないですか?てか、そもそもメールの返答遅すぎだし、面接時間に行ってるのに待たされるし、なんですか?ウチナータイムで仕事されてんですか?)、その出版社の雑誌の不買運動をしたりはしないよ。でも、本当にムカついてはいたんだけど、電車に乗って、一駅前で降りて、家まで大きな霊園を抜けて歩いて、それで玄関の前まで来たときに、雲のない空を鳥が二羽飛んでるの見たら、どうでもよくなった。空の広さに比べたら。

小説家と言われる人たち、小説を書いている人たちがエッセイやコラムを書くことってよくあるじゃないですか。僕もよく読むし、面白いと思うことも多い(小説とエッセイの違いってなんだよって話はまた今度)。それで、ライターと自称する、他称する人たちも、もちろんエッセイやコラムを書くことはあると思うんですよね。普通ですよね。でも、ライターの人が小説を書くことってあんまないですよね。ライターなのに書かない。
僕は小説家ではないし、ライターでもない(今のところ。もしかしたら7月中になれるかも?)から、関係ないんですけど、でも、面白い文章が書ける人が小説を書けないわけがないのだから、ポリシーがあるとか、そういうことじゃないんだったら、書いたらいいと思うんです。書けないと思っている人は、それは「小説」というものを高い位置に置きすぎていたり、特別視しすぎていたりするのではないでしょうか。ライターという肩書のまま小説を書き、それ以降も小説家とか作家とは名乗らないという行為それ自体がもう変わっていて面白くないですか?面白くはないですか、そうですか。
じゃあ、最近CSで見る通販のCMに小説家とか文化人がよく出るようになったのなんで?って話をしますか。高橋源一郎が掃除機かけてたり、角田光代が枕をおすすめしたりしてたぞ。(あと文壇について、いろいろ思ったりもするけど、文壇が誰かを排除する権力、付き従わせる権力として機能していたなら、今の文壇なんてなくなってしまえばいい……のかもしれない。)