「僕(たち)は、あらゆる大きな歴史の、その大河の一滴に過ぎない」というのはロマンティックで、結構うっとりできるものだ。甘い言葉。でも、現在の現実は大河ではなくて、ビッグデータの一滴として解析、データとして利用されていく人生だ。そこに、そこはかとなく漂う虚しさ。僕の無法も、偉業も、何したってすぐに情報に分解されて、アーカイブされてしまう。そして次の誰かへ使われてしまう。僕の唯一無二の人生だったはずのものが。
このことからはもう逃れられないのであって、人間は情報の組み合わせではないのだから、データベースに意味はないって、本気で思えていたときはよかったのにね。
少し前の話で恐縮なのだが、第7回「マキタスポーツ食道」にて取り上げられたテーマは、カツ丼だった。番組で話されたマキタさんのエッチな食べ方も面白い(わざとご飯に汁を吸わせて、少し冷蔵庫で冷ましてから食う)のだが、ここでは、こうしたキッカケでもないと紹介しないだろう「カツ丼理論」というものを紹介したい。
星野智幸(作家)×鴻巣友季子(翻訳家) 物語の魅力は終わらない
ここで、星野さんの小説『夜は終わらない』に絡めて、鴻巣さんが説明しているのが「カツ丼理論」である。もとは、龍谷大学教授の廣瀬純さん(実は以前、ブログのフィクション部分の中で、廣瀬さんの言葉から着想を得て書いたものがあるのだ。さてどれか、探してみよう)が提唱したもののようだ。
曰く、あらゆる芸術は「骨=形式、フレーム」と、「肉=中身、内容」からできている。
では、カツ丼(芸術じゃないけど)はどうだろう。カツ丼は大きく見れば、ご飯という骨=フレームと、卵でとじたカツという肉=中身でできている。しかし、さらに分割して見てみれば、卵でとじたカツは、卵というフレームと、カツという中身でできていて、またカツは、衣というフレームと、肉という中身でできている(僕は、「器と、カツの乗ったご飯もじゃん!」って思った)。
つまりカツ丼は、骨であった部分が、あるところでは肉に変わり、肉であった部分が、別のところでは骨に変容している。そしてこのように、骨と肉の関係、形式と内容が質的に変換、変容し続けるものこそが、素晴らしい芸術なのだ、と。(そして、『夜は終わらない』という小説こそ、カツ丼理論に当てはまるのだという。)
これ、面白いなーと思った。いろんなものに当てはまりそう。しかしこれ、完全に書き起こしただけなので、とても申し訳ない。だが、皆さんに教えたいので、ここに残しておく。
気分気分で生きている。今日もラジオを聞きながら、ふとした気分でダイエーへ行ったら、そういうえば100均はなくなってたんだけど(9月から新しく、別の100均チェーンになるらしい)、隣のスペースで売り尽くしセールをやっていて、何気なくのぞいたら、半間用カーテンというのが、とびきり安く売っている。390円。部屋の一角をしきって、ラジオブース(のつもり)にしたかった僕は、喜んで買った。
早速、いや、夕方帰ってきて、野球を見て、ゴキブリが出たので部屋を片づけて、あのすごい試合だったワールドカップ決勝トーナメント一回戦フランス-アルゼンチン戦が始まる前に、もう渡してあった突っ張り棒にかけようとするも、カーテンレールじゃないから構造的にかけられなかったので、とりあえずガムテでカーテンの上を少し折って留めて、その隙間に棒を通した。
かかったカーテンは、そのポップな花柄とは裏腹に、非常な威圧感であって、僕は気圧されながら、これを書いた。
「働き方改革関連法成立。国会音声で問題点を整理 荻上チキ・Session-22」
「けーざいかい」とかに巣くう金の亡者たちがさ、この世にとりつかれ成仏できない魂のように、金にとりつかれているのは、まあ勝手にしてくれればいいけど、力を持ったバカなのは困るよな。逆効果になる制度を作らせるようなさ。まあでも、バカじゃないと金持ちになんてならないし、金は力だから、しょうがないのかもしれない。
しかし、頭がよく利口で、労働者の健康を増進する施策を打ち出すような邪悪が現れたら、そっちの方が怖いような気もするな。