ブログ「いらけれ」

アンドレ・コント=スポンヴィル『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』小須田健/C・カンタン訳、紀伊國屋書店、二〇〇九年、一〇四頁より引用。

ひとは、数学のためにもなんらかの学問のためにも、そして事実的な真理――きちんと確立されたものであるかぎりでの話だが――のためにでさえ殺しあったりはしない。殺しあいがおこなわれるのは、自分にわかっていないものあるいは自分には証明しえないものをめぐるばあいだけだ。」

この話は、宗教について書かれている部分なのだけど(「宗教は、証明のためにこそ争いを起こすが、それは宗教が何一つ証明しえないものであることを証明してしまう」というのが僕の理解)、これはあらゆることにあてはまると思うと同時に、事実ですら捻じ曲げる、証明済みのものに対してすら「証明しえない」と強弁される今の時代のことを考えさせられた。「証明しえない」と言い募れば、殺しあうことだってできてしまうのだ。

ツイッターで、頭のいい人たちが、そのいい頭を使って、何か書く、僕はずっと、その頭の使う方向というか、揶揄であったり、ネタ化であったりということを、のべつ幕無しに、あらゆる対象へ向けて、行うことが問題だと思っていたが、しかし、それは症状なのではないかと、考えを改めた。つまり、ツイッターでも、ラインでもいいけど、短い文章の中に、自分の思いや、考えを押し込めることが、そもそも無理があるのであって、人間の頭は、そのようににできていない。論理の飛躍が、矛盾する感情が、当たり前に存在する。シナプスは、星座のつながりのようなものだ。それを、論理的な、文法的に正しい方へ成型することこそが、過ちの始まりなのだ。そうやって書いてばかりいると、そういう風にしか考えられなくなる。もっと不透明な、規則正しくないあり方で書かなければならない。

できるかぎり毎日書かないと、わざわざ書く必要性のなさにやられて、何も書けなくなる。返却期限間近の本を読んでいて、二日書かないでいたら、二日分のストックがなくなってしまったばかりでなく、書きたいという意思もなくなってしまった。
もうすぐ(個人的な)一つの季節が終わるのだ。新たな局面に移行すれば、書くことは大変になる。忙しくても、時間がなくても続けられる方法を、発明しなければならない。それができなければ終わる。終わるなら終わればいい、という気もする。


Camp Cope – How to Socialise & Make Friends | Audiotree Far Out

ちょっ、ちょっとその「Warning」もちゃんと聞かせてもらえますか!?(Green Day好き)
僕の好きな人が、別の僕の好きだった人のファンだったとか、カバーしてるとかというときの、この嬉しい気持ちは何なのだろう。僕が宇多田ヒカルだったら、この感情に名前がないかツイッターで聞いちゃうところだよ。