ブログ「いらけれ」

気がついたら明るくなっていて、窓を開けたら涼しい風が通り抜けた午前5時に頭を抱える。ブログがあまりに書けない。文章を書くことは難しいと思った。書いて意見することの本質的な虚しさというか、書けることなんて単純なことで、現実は複雑で、複雑な現実のようには書けない。単純に切り取ることが、なんだかでっち上げのように感じてしまって。しかし、そんなことを言っていたらブログの更新が途切れてしまうし、そんなの潔癖すぎると思うから、とにかく、解きほぐすように、ここ数日にあったことを書いてみようと思う。そのためにはまず、思い出してみようと思う。
今は、東浩紀『セカイからもっと近くに』を借りて読んでいる。この瞬間、この偶然目に留まった瞬間に借りなければ、僕の興味や関心からして、一生読まないだろうと思ったから。アンドレ・コント=スポンヴィル『精神の自由ということ』を、返却期限ギリギリに駆け足で読んで(第三章から、予想していなかった結構スピリチュアルな議論が始まってビックリした。あと、図書館に氏の著作が2冊もあってビックリした。僕が返却した今は3冊になっているはずだ)、また新たな偶然を求めて、いつもと違う市内の少し遠くの図書館に行った。その本の並びの違いが楽しかった。そこで、フランコ・カッサーノ『南の思想』というのも借りて、これは図書館でパラパラと捲って面白そうだったから、今から読むのが楽しみだ。
しかし、図書館とは挫折である。あの名作も古典も、気になったタイトルの本も、死ぬまでに読めないのだと、背表紙に言われているみたいだ。まあでも、死ぬまでに読めたものだけが、死んだときに読み終わっていたものになるだけだ。全ての本を読むことなどできないし、それはそういうもので、しょうがないのだと思わなくてはならない。
しょうがないと思えないのは、汚れについてで、他にも借りようかと思った本があったのだけど、あまりに汚かったのでやめてしまった。皆のものである本を汚せる人が信じられない(心が狭い)。それは自分が、借りてきた本を必要以上に恭しく扱っている(その丁寧さを見せたいくらいだ)からだろう。
そんなことより『セカイからもっと近くに』である。その内容については、まだ半ばであるから言及しないが、その文章の読みやすさに唸った。読みやすいから良いというわけではないが、最近「晦渋な」というかなんというか、海外の思想書というのもあると思うが、ストレートに入ってこない文章ばかり読んでいたから、明快で読みやすいのは助かる。
でも、今の気持ちとしては、あれらの思想書のように、その翻訳文のように書きたいこと(ネタ)があって、それは本を読みながら思いついたことだ。どうしたらあのように書けるだろうと、その書き方に悩んでいて、筆が止まっていたという事情もあった。もちろん自分の能力ではできないことはあって、しかし、そこに挑まないのならば、お金をもらって書いているわけでもないのに、せっかくこういう場所があるのにもったいないという、そういう気持ちがある。でも、簡単には書けない。
こんなことを、言葉を検索して誤用しないように調べながら書いていたら、Googleの、あのタイトルの下の説明文みたいなやつに引かれて、線維筋痛症という病にかかっている方の手記を、本当にたまたま見つけて(「線維筋痛症友の会 手記04」)、読んで、心を動かされた。その大変な告白に対して、「感動した」などと容易には言えないが、しかし、それに近い感情を抱いたのは確かだ。自分の書くものなんて、あらゆる意味で足元にも及ばないと痛感する。しかし、それならばこそ書いていくしかないし、明日には書けるかもしれないと思った。