ワールドカップの決勝、消化不良感が残ったなあ。強いと目されていた方が、順当に勝ったというのもあるし、オウンゴールや、微妙なハンドPK(しかもVAR)という残念な形でのゴールもあったけど……うーん……。クロアチアのいい時間もあっただけに、もう少しグッドゲームが見たかったというのも、観客としてのエゴなのかもしれないけど。
「一昨年の七夕の日に、天の川を渡って長い旅に立たれた○○さんの……」というラジオCMが、少し前にあって、TBSラジオリスナーなら聞いたことあるかと思うけど、人の死にこういう過剰な装飾をされると、とても居心地悪い気持ちになる。ロマンチックが過ぎるそれは、故人を偲ぶ思いではなくて、今いる私たちが気持ちよくなる言葉じゃないか。気持ちよくなるのは悪いことじゃないけど、はしたないことだと思う。品がないと思う。
帽子を買った、人生で初めて。暑くて耐えられなかったから。今まで買ってこなかったのは、(どんなものでも似合わないので)似合わないからではなくて、本当に何も考えていなかったからだ。僕の、考えていないことの考えていない具合はすごい。中学に上がった途端、内申がどうのこうの言い出した同級生におったまげたくらい、本当に知らないことを知らず、考えていないことを考えていない。適当な診察をする精神科医にだって、何も考えずに毎月付き合っていて、今日も今日とて掛かってしまったのだから。こういうのって本当に良くないなって思ってはいる。
考えていることに対しても、なんだか偶然を持ち込みたいとか思いがちで、ホイジンガを読み終わって、図書館に返して、間髪入れず借りたのがアンドレ・コント=スポンヴィルだ……って、それ誰なの!いや、僕も知らない。知らないから借りた。有名な哲学者の本はなるべく読みたくないとかいう天邪鬼で。哲学とか好きだから、僕だって哲学とか、色々知っていて、真っすぐ勉強していけば、それなりの人間になれるかもしれないのに……。
でも、その『精神の自由ということ』という本は、少し読んだところ面白そうでよかった。重要なのは面白いとか、気分が良いということで、帽子も気に入ってるから、気分は良い。「この真っ黒な帽子、ジョンヨンちゃんが被ってそうだな」とか思って、独りで満足している。実際、僕の被っている帽子を彼女が被ったら、その1.5倍くらいの頭大差(造語。頭の大きさの差のこと)によって、日曜の草野球にごねて混ぜてもらったものの、大人用のヘルメットしかなくて、それを被って打席に向かう小1の僕みたいになっちゃうだろうけどねー。
「想像ラジオ 対談 いとうせいこう×千葉雅也 | 河出書房新社」
たまたま見つけたので、ちょっと古いけどシェア。本は両方読んでたけど、これは見逃してた。
関係妄想と、豊かな感受性みたいなものって、実は近いところもあって、とくに作り手は難しいと思う。だって、世界の裏側の悲劇を自分事として考えられるくらいの想像力がなければ、きっと小説なんて書けないのだろうから。その接続を過剰にしすぎないこと、もうちょっと不真面目に生きることか~と、そこだよな~と思った。