宇多田ヒカルの「プロフェッショナル」を見たときに思ったことがあって、それは音楽家の耳についてだ。音楽家は音楽を聞きながら音楽を作る。聞いている耳が、自分の知らぬうちに変わってしまうこと、例えば、知っていると思うけど、年を取ると周波数の高い音が聞こえなくなるということがあって、それもそうだし、聴覚がもっと別の、全く別のもの、ドがレに聞こえるような耳に、一夜のうちになっている可能性だってある。また、自分の聴覚というものが、聴衆のそれと同じだとは限らない。違うように聞こえているかもしれない、でも、そんなこと考えていたら曲なんて作れない。
言葉は音とは違って、人が作ったものだから、文章を書いたところで、それが読み手によって変わるはずがない、なんて、そんなはずがない。微妙に揺れ続ける言葉の意味や、読み手が文章の外のある現実の文脈を知っているか、文意を捉える論理的な能力があるかといったことによって、それはもう、大きく違ってしまうだろう。でも、そんなことを考えていたら何も書けない。
作り手は、自分を統御できていると思わなければならないし、作品を受け取る他者も、同じような感覚であると思い込まなければならない。全く別の受容をする他者を想定し、その者にも伝わるように……などと考え始めたら気が狂う。そこでは、独裁者になることを求められているのであって、創作行為の中で私たちは、せめて良い独裁者になるしかないのだろう。
僕は、あらゆる手続きが苦手で、それを前にすると、完了するまで緊張感がとけない。だから今、ずっと微動しているような不安定な心身状態にある。(つまり、内定をもらって、契約書を交わす前の段階にいるということ)
書き始める前は知らなかったこと、それは、日々の心身状態の差が意外と大きいということで、それは、躁病だとかうつ病と診断されていない人でも、おそらく全員そうなのだと思う。顔がピンクで跳ねているときも、紫でつぶれているときもある(パワプロ)。
ここで僕が飾らずに、自分の状態に正直に書けているのならば、これが日々を映す鏡になっているはずで、思いっきり浮沈しているでしょう?
だからあの、なんだ……察しておくれ。
また一日をブログのレイアウト変更で潰してしまった。サイトが重く表示に時間がかかるのが気になっていたことや、結構な量のアクセスがあるのにシェアされないことなどをキッカケとして、Wordpressのテーマ変更をしたわけだが、問題はそこなのだろうか(いや、そこではない)。
経験になるのは確かにそう。でも、現実逃避だ。現実逃避でアクセスが増えるなら、それでもいいと思った。
Rex Orange County – Sunflower
Rex Orange Countyは二十歳の、世界が認める天才。また、先日紹介したファンタスティックしほも、僕にしてみれば天才。世界がまだ知らないだけ。どちらも同じように音楽をやってる、どちらも同じように天才。
ファンタスティックしほ – あなたはあたらしい (super song)
皆が聞いて、皆が幸せになってしまえばいいのに。