ブログ「いらけれ」

ぼくは、本間さんのことが、本当は好きなのだけど、そんなつもりないって感じを装っているつもりで、本当に偶然って感じで病院のロビーに居合わせて、彼女のお母さんのお見舞いを一緒にする。学校でピエロをやっているぼくを、彼女もそんなに悪く思っていないみたいで、「なんでいるのー!?」「たまたま診察日が」なんて話している内に、お見舞いを頼まれたのだった。彼女のお母さんは難しい病気で、痛みがひどいらしく、痛い、痛いと言っていた。でも、彼女の姿を見ると、少し落ち着くみたいだった。二人で少し言葉を交わした後、彼女のお母さんは、今度はぼくに向かって「あら、後藤く
という夢を見て、朝の4時くらい。非常に虚しい気持ちで起きた。読みかけの本は、やっと終わりが見えてきていたから、今日は散歩へ行った。もう夏みたいな日々だけど、この時期の、この時間ならまだ戦える。人の気配のない道を、涼しい風が吹いている。
歩いて、この地域には野良猫が多いことに気付いた。たくさんの猫を見たから。野良猫の多さは、その地域の寛容さとつながっていると、動物の専門家の人が言っているのを聞いたことがある。この街も、そんなに悪くないのかもしれないと、そう思うのは糞尿の被害を受けていないからで、猫に困っている人もいるのかもしれなかった。野菜の無人販売所、いつもはズッキーニが置いてある場所に眠る猫の、息で膨らんだり、しぼんだりする姿は、確かにとても可愛かったのだけれど。
聞いていたポッドキャストで、「警察24時」が問題だという話をしていて、それは、薬物や万引きに手を出した人、暴力を振るった人を取り締まった、成敗した、懲らしめたというアングルしかないことへの批判で、それはそうなんだけど、でも、例えば依存症患者の背景を丁寧に伝える番組って、ゴールデンといわれる時間帯ではありえないと思う。画にならないから。やっぱり悪をやっつけるヒーローが見たいのであって、相手を説得するスーパー戦隊がいないように、欲望がそうなっている。本当は画になる、ならないで犯罪を扱ってはいけないって分かっているけど、この世界は画になる方へ曲がっているのだ。
帰ってきて、とりあえずトーストを焼く。少し高い所にあるレンジと、熱いトーストという組み合わせは悪く、下に置いてあったゴミ箱の中に落としてしまう。なんか全てが嫌になった後、「ダイエット中だし……結果ダイエットになるからいいし……」って思おうとして、無理だった。悲しくなって、二度寝した。
これが今日の始まりの顛末。

100円で売られているわけではない。

ブログ「いらけれ」

このブログをお読みいただければお分かりのように、ここ数日書きたいことがない。書きたいことがないときにはどうするか?「書きたいことがない」と書くのである。これがブログを続けるコツである。しかし、この3日くらい「書きたいことがない」とすら書けなかった。それまでのように、私はブログが書けませんという文章すら書けなかった。それがなぜなのか分かっていなかった。今はおそらく、大きな災害が日本で起きていたことが、その原因の一つだったのだろうと思っている。
七月のある日、折り畳み傘で事足りるような雨に降られたとき、あの映像の大雨や、川の氾濫や、土砂崩れが、たくさんの人が亡くなったということが、本当に分からなくなってしまった。同じように雨と呼ばれるものだからこそ、実感が湧かなかったし、言葉につまった。何だかとても、嫌になってしまった。少しずつの支援しかできないことが辛い。それはでも、一個人にはしょうがないことだと、納得がいかない。納得できなくても、人生は続いていく。そのことも、今やはっきりと嫌だ。
私たちは、地震が神の怒りではなく、プレートのずれなどによって起こることを知っているし、火山の噴火や、大雨が降るメカニズムも知っている。科学によって解剖された世界が、むき出しの不条理に対して言うのは、「こうだからこうである」という説明であって、それは信じられないほどに虚しい。
自然科学では救えないものがあるし、その救えなさをなんとかしようとして、価値の体系を作ってきたのが人間だというのならば、私たちはまた、その体系が生き生きと共有されていた時代を取り戻す必要があるのだろうし、それを心から信じ直す必要があるのだろう。
って、こんなこと書いても、私の気分は沈んだままで、そのことも今、はっきりと嫌だけど、私は勝手に、少し気が楽になってしまっている。これを書いたことによって。

未だかつてないほどの無音の中で、男の登る山は土の、その土の上に落ちている腕時計の、秒針が一つ動くところを見た男は、それは5分前に始まった仮説ではなく、毎秒始まりから終わりまでが、その一瞬のうちに起きていることを知った。しかし、膨大な時間が通り過ぎても、知覚できるのは毎秒のことだけだったし、その毎秒の知覚が連続している、一秒ずつ生きているという虚構の方が、男には重要だった。

「コンピューターは哲学者に勝てない――気鋭の38歳教授が考える「科学主義」の隘路」
もちろん、僕はこれを読んで今日のブログを書いた。どれだけ僕が理解できているのかは置いといて、このインタビューは、とても面白く読んだのは確かなのだが。
このガブリエル氏の分かりやすさ、思想の実相の素直さに対して、面食らう部分もあるし、どうしていいか分からないところもあって、とにかく今度の番組(BS1スペシャル「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く〜」7月15日10時~)は、見れたら見ようと思う。忘れてしまわなければ。

ブログ「いらけれ」

「下西風澄トークイベント はじまりの哲学 〜制御する心から、上演する心へ〜 Vol.1」
例えばインターネットも、精神と肉体を巡る思想の、肉体から精神を解放するんだという思想の結実でもあって、その意味では、インターネットもソクラテス的なテクノロジーと言えるのかもしれないと思った。
後編では、東洋的な心/西洋的な心という話になっていくわけだけど、僕はその二分法に収まらない、今まで考えられて来なかったAI独自の第三の心の出現に期待(あるいは恐怖)している。これまで心のあり方として想定されてこなかった形の新しい心を、機械自身が発明する可能性や、そうして作られた新しい心が、人間には心として認知できない可能性、心の内実を理解できない可能性はあって、その未来を妄想すると怖くて、眠れなくなったりしているわけです。

誰でも抽出できる程度のテーマと、誰でも分かる程度の暗喩と、誰でも驚く程度のどんでん返しで作られた小説をありがたがるような、そんな読者にはならないでください。「つまらないのは面白さが分かっていないだけ」と作者を甘やかすような、そんな読者にも。
では、どういう読者になるべきか?という問いには、どういう読者になるべきだと思いますか?と返し、つまりそれが答えだ!と言い、ビシッと貴方を指さす。
つまり、どう本を読むべきか考えている読者だけが読者で、読者には、読者になろうとしなければなれないのである。常に疑問の只中に居るのが読者で、じゃあ、そうじゃない人って読者じゃなくてなんなの?という問いには、それは……

まだ信じるもののなかった時、途轍もなく長い道を兄に手を引かれて歩いた。知らない街の壁には、大人の顔の写ったポスターが張られていた。絵が書かれた壁もあった。その赤い線が何を表しているのか、なぜ書かれているのか、その時の私には知る由もなかったけど、それはあったし、いつか書いた人が確かにそこにいた。その日から、ここが私の故郷になった。

ニコニコ動画で「口から出まかせ」(言葉のブーメラン ライムで革命クーデター!)で検索して、いつもはそんなことしないんだけど、なんとなく引っかかった動画を開いたのが、この曲を聞いたキッカケ。

ファンタスティックしほ/名台詞

本当に偶然聞いただけだけど、これを歌っている方は天才なのではないだろうか。もちろんSoundCloudで他の曲も聞いたけど、やっぱり天才なのではないかと思った。別にCDを出したりしていないらしいので、それが残念。なるべく音楽を続けていってほしいし、できればHEADZかP-VINEからデビューしてほしい。(この二つのレーベルである理由:僕が好きだから)

ブログ「いらけれ」

「特別編-対話のボイスメモ#1:ボイスメモを公開する。」

なんか違うんだよなって思ってる。朝日新聞の書評を載せてたサイトのリニューアルされたデザインに対して。丁寧な暮らし的というか、IKEAの家具的なというか、J-WAVEの昼間的なその色合いが、悪いと言いたいわけではない。ただ、それはそこにあればいいのであって、掲載されてるシリアスな書評とマッチしていないと思う。そもそも「好書好日」というサイト名だって、自分の暮らしをよくする、役に立つから本を読むというような態度を称揚してるようで、好きじゃない。いいですか、本とはもっと危険なものでもあって、もっと大きなものでもあって……と、途端に繰り言感が増してしまったので止める。
「BBQの王様」って名前がCSの番組表で気になったから、そのチャンネルに合わせて待ってて、始まったら「今日は豚の丸焼きを……」って、頭はなかったけど、ほぼ丸の豚に太い棒が刺さってて、自動回転機で回されて、焼かれてる。嘘やん、って思った。モップでソース塗ってるし。サブタイトル「リアル・アメリカン・バーベキュー」ってなってるけど、これがリアル・アメリカンなのか。焼きあがると驚くほど皮がパリッとするらしい、こっちは一生焼きあげねえけどな。最後は焼きあがった豚を、たくさんの人(スタッフ?)で食べて、番組が終わった。王様の番組はすごかった。
こんなんで、どうでしょう。書くことがないから。だって今日は、本読んでたら、眠くなって10時間寝てしまって、ずっと一日何もない。まともに本も読めない。人生が少し違えば、研究者や教授になれていたかな、なんて想像するときもあったけど無理。だって、何読んでも寝るし、頭に入ってこないんだもの。自分の身体のままならなさ、自分ですらままならないことが寂しい。
日中は寝てたけど、そういえば早朝にはサッカーを見ていた。大げさに痛がったり、軽くぶつかっただけで派手に転倒したり、「芝居を見たければ劇場に行く」@木村浩嗣なわけだけど、しかし、選手が倒れたときにはプレーを中断するためにボールを外へ出し、中断明けにボールを入れる側は、出したチームへボールを返すというマナーがあるんだけど、そのマナーは守ってておかしかった。そこで、ボールを返さず攻めるというマナー違反はしたくないが、PKをもらうために、わざとすっ転びはするというのは、あまりに滑稽。
夕飯は素麺で、素麺の薬味というか具?の、ベストの布陣についてはいつも考えていますよ。ただ考えているだけで、実家だから、ショウガ、しそ、錦糸卵や、あと、細く切られたキュウリとかハムが、家では出てくるんだけど、それをそのまま入れて食べているけど。なんなら、食卓に並んでいるキムチを最後に入れちゃったりして、ずるずる食べながら、あー冷麺って食べたことないけどこんな感じなのかなーって、ずるずる食べたりする。そういう行きずりの関係を、素麺とは結んでいる。

今揺れられても、自分が揺れているのか、この家が揺れているのか分からない。大きくはなかったが、確かに地震だった。ひどい大雨が日本に降っていて、心を痛めている。平穏な日常には感謝していたい、湧き上がる激情には反抗していたい。