ブログ「いらけれ」

人の流れのなかで、大いに挫けていた。人混みの居心地悪さ。苦手さ。目的意識の薄さ。「何で来たんだっけ」と思ってしまうほど、一人は心許ない。確かなものが一つもない。

それでも入り口を抜けて、パンフレットをもらって、でもやっぱり、隣のドアから出た。生きることの苦手さに耐え、見本誌が置かれた部屋に向かった。

ここに行って良かった。たくさんの本を前にして、迷いに迷った。優柔不断のおかげで、少し落ち着いた。そこにはたくさんの人がいて、大きな机がいくつもあり、その両側に何冊も並べられた本を、真剣な表情で見つめて、ある時、意を決したように手を伸ばして、開いたページの文字を目で追っているようだった。

同人誌を買ったことがないから目が利かない。それもそうだ。でも、そこで初めて目にする表紙の、誰が書いたか分からない本のなかから、どれか一つを選ぶためには、ジャンルやキーワードで絞るとか、パッと見てピンときた自分のセンスをどこまでも信じるとか、何か手掛かりや基準がないと難しい。

書きたい人がたくさんいる。供給過多が場によって露わになる。認識させられる。本当はそんなこと、街の本屋でも、図書館でも分かるはずだ。しかし、商業出版のレールに乗った本は、しっかりと自立しているように見えるから、そのことを忘れてしまう。著者とは別の、作りたい、売りたいと思った誰かの存在を感じるから、僕一人が選ばなかったところで、何の問題もないだろうという気がする。しかし、書きたい人が作った本は頼りない。僕がここで選ばなかったら、誰も選ばないかもしれないと、そう思ってしまう。一種の寂しさ、あるいは哀れさがある。そうした佇まいが、伸ばしかけた手を引っ込めさせる。

すぐに僕は、この中に入って勝つ方法を考えたけれど、何一つ思い浮かばなかった。ツイッターで有名になっておく、とかだろうか。ちゃんと読者がいれば、その内の何人かは買いに来てくれるだろうし、その存在が安心をくれるはずだ。そうなると今度は、ツイッターで有名になる術を考えなければならない。無理だなと思った。

会場全体を二周して、やっとブースの前に立つことができた。憧れの人ばかりで、緊張し過ぎて死ぬかと思った。ミーハーな自分は、とても気持ち悪いなと思った。あと、批評家の矢野利裕さんと歌人の仁尾智さんに、こちらが知っているからと名前で呼びかけてしまい、コミュニケーションの拙さに帰り道で泣いた。『コミックソングがJ-POPを作った』という書名も、緊張で飛んでしまった。本当に駄目だった。

でも、店を出していない人に話しかけなかったのは、偉かったと褒めてあげたい。大好きな人とすれ違っても、「めちゃくちゃファンです」という言葉は、頭の中にとどめた。『F』や『ブレスト短歌』に加えて、『Didion』も『クライテリア』も買えたし、『けものたべる』とトートバッグもゲットした。死にかけながら頑張った。青羊さんと夢の交換をして、僕は「来年は文フリに出店する」と書いた。それが本当になったら良いなと思うし、あと、家に着く直前に「こっち書けばよかった!」と思いついた「台湾に行く」という以前からの夢も、叶ったらいいなと思う。叶えるのは僕だから、僕が頑張ればいいだけだよ。

ブログ「いらけれ」

「文学フリマ」というものがある。公式サイトによれば、それは「文学作品の展示即売会」であり、そして、その文学の定義とは、「自分が〈文学〉と信じるもの」であるという。つまり、本やコピー誌でなかったとしても、CDやTシャツだったとしても、作者が文学だと胸を張るものであれば、店を出して、並べて良いという。

僕がなぜ、略して"文フリ"と呼ばれているこのイベントに参加、参加といっても出店したわけではないが、したのか、そのきっかけを話すと長くなるというか、どこまで遡ればいいのか。さっぱり分からない。ハロウィンの渋谷には行かないが、文フリには行くような、それは教室で一人、古典として知られているわけでも、ベストセラーでもない小説を読んでいた時から決まっていたような気もするし、それならば、そのような人間になった理由を、さらに時計を巻き戻して、探らなければならないだろう。

とにかく、少し前に偶然の出会いがあり、紆余曲折を経て、同人誌を出してみたいという気持ちになり、しかし僕は、同人誌がどういうものか、まったくと言っていいほど知らない、知らないままで作れるはずもないのだから、それならば、ツイッターでフォローしている人たちが口々に宣伝していたあれに、行ってみようと思ったのだ。きっかけがあり、動機があり、欲しい本があり、時間があった。それでもどこか尻込みしている自分の尻を叩いた。

朝に起きて、昨日買った袋麺を食べた。西友のプライベートブランドの、かなり安価な塩ラーメンだったが、普通に美味しかった。準備を終えて、昼前には家を出た。西武線から山手線、乗っている間は『いろんな気持ちが本当の気持ち』を読んでいた。派手ではない良さでいっぱいだった。そこには文学があった。会場の流通センターでは、文学と出会うことができるのだろうか。疑いを抱きつつ、京浜急行に乗り換えた。

降りた平和島駅は、最寄りではない。数百円をケチったのだ。30分ほど歩かなければならなかった。上り坂と歩道橋があって汗ばむ。何人かが、同じ方角へと向かう。何人かは、その方角からこちらへ来る。同じ目的を持っていることが、雰囲気で分かって、心強い。

結局、モノレールの流通センター駅の前を通らなければならず、そこでやっと、たくさんの人出があることを知った。それは想像していた以上だった。名前の中に文学と入ったイベントが、大勢の人を集めていることに驚いた。しかし、文学は売れないと聞く。文学が売れないのだとしたら、文学ではなく、フリマに集った人々だと考えるべきなのかもしれない。誰もが体験を求める時代なのだから。(続く)

ブログ「いらけれ」


毛玉 – キジバト

あぁ神様 運命を変える力を与えてくれないか
それだけで強くなれるから

曲名を確かめて、ポケットに入れようとしたスマートフォンが、昨日から降り続く雨で濡れた道に落ちた。拾い上げると、角の塗料が取れたざらざらとした感触が伝わった。画面は割れていなかったが、汚れていた。

車両の隅に腰掛けて、ラジオから音楽に切り替えたスマートフォンを、窓の下の台に置いた。『いろんな気持ちが本当の気持ち』という題が胸を打つ。この時間の下りは空いている。長嶋有の文章が好きだ。小説や漫画についての評論からは、どこまでも本質を見抜いてやろうというような気概を感じる。そして、自分のこと(気持ち)を書くときには、適当な距離があり、冷めているのだ。芥川賞の選考会の前日に、「髭を剃っていきましょう」と出版社の担当者に言われ、それまでは何の主張もなかった髭に、しかもまだ受賞すると決まったわけでもないのに、固執し出す自分を書く。自分に対する戸惑いまで、その通りに書く。ジョン・アーヴィングの新作として、『第四の手』が紹介されている章があったから、それはいつのことだろうと「アーヴィング」で検索したら、存命であることに驚いた。自分のなかで勝手に、歴史上の人物として、かつてこの世界を生きていた文学者の箱に入れてしまっていたからだ。これからはこのように、無知を晒すことを躊躇わないようにしよう。そう心に決めた。集中していたら、あっという間に最寄り駅で、カバンに本を入れ、バッとスマホを手に取ったら、細長い汚れの端に、小さな蜘蛛だったはずのものが引っ付いていた。知らぬ間に殺生してしまったようだ。

新宿の高いビルの頭が、雲で隠れている。悪い人たちが棲みつく摩天楼、といった風情。工事中の迷路を抜けて、細かい雨でびしょ濡れになったとしても、報われるとは限らない。社会から求められていないのだ、と思う。気が付いたら、駅から遠ざかる動く歩道に乗っていた。相当にショックだったのだろう。

自分の機嫌は、自分で取らなければならない。ボルダリングでもロウリュでも、薬を飲むんでも、何でもいいんだけど。僕の不機嫌は千円。炭酸2本と大きなポテトチップス、袋麺、それに隠し味として入れたら美味しそうな香味ペースト。スーパーに入ったときは、皆から避けられていた試食販売の女の子が、お客さんを捕まえていて泣きそうになる。僕らには優しさが要る。会計を終えて、傘袋から取り出した傘を差す。家はもうすぐそこだし、心も大丈夫そうだ。炭酸とポテチが待っている(家にあるのではなく、手に持っているのだが)。ウイスキーを割って、空きっ腹に入れたら、実存がふわふわした。そこで曲が終わったから、ランダム再生を止めた。


BUGY CRAXONE「わたしは怒っている」Music Video

なにをやっているのさ
なにをたべているのさ
なにがだいじょうぶなのさ
わたし ちっともしらない
しらない

ブログ「いらけれ」

目まぐるしい。やっと履歴書が書けたから、次は日記だ。思いもよらないことばかりで、大変だなんて言わない。大方は嬉しい出来事なのだから、この波に乗っていけば良い。未来は明るいと信じれば良い。少なくとも、昨年末よりは進んでいるのだ、この人生ゲームのマス目は。そういえばいつだったか、「フリダシに戻る」のフリダシが振り出し、つまりサイコロを振り始めた地点を指していることに気が付いて、閃いて、ああそうかって思った。それまでのフリダシはフリダシであり、とんねるずのことを「とん+ねる+ず」と捉えていた時のように、振り出しとは手触りの違う言葉だった。

頭を使わないではいられない性質。何もしていないと余計なことを考えてしまうから、スマートフォンで将棋を指し始めてしまうのかもしれない。詰むや詰まざるやを考えるのは、とても苦手なのにね。しかも、それでいて終盤型という矛盾。序中盤が、輪をかけて下手なだけという説は有力。勉強も研究もしてないからなあ。

そうじゃなくて、詰将棋の一手目はどこから来るのか、という話がしたいのだ、僕は。昨日は、このことばかり考えていた。

やったことがない人には分からないかもしれないが、詰将棋を一目見ただけで、なぜか正着がわかってしまう時があって、それは、どこかから答えが降ってくるような感覚だ。もちろん配置された駒から、その先を読まずとも、詰将棋は意外な初手が多いという予想もありつつ、詰みやすそうな手が読み取れているわけだが、言うなればそれは、徐々に身についた能力で、熟練のバット職人が、木を何mm削ったか分かるように、言葉へと還元されない次元で分かっていて、イントロクイズの一音目で曲名が出てくる時のように、正解が出てくる。この不思議さ。

(日常を一目見ただけで、日記が書けるようになりたい)

「笑顔だけではないTWICEの物語。“Feel Special”が歌う痛みと愛」
書かなければならないことが、すべて書かれている素晴らしいコラムだ。読みながら拍手していた。でも、ちょっぴり悔しくて、ずっと紹介できないでいた。
彼女たちのこれまでを、真剣に追いかけきた者でなければ、絶対に書けない文章でありながら、批評性も手放していない。「話は少しズレるが、TWICEのVLIVEは最高だ」というパンチラインもある。
「これぐらい書ける」と、大勢が勘違いしているのが現代で、僕もその一人だった。書いてみればすぐに分かることだ、しかし、本当に書く人は少ない。例えば、アイドルグループのファンを自認している人たちであっても、その中の、おそらく半分程度は知識が不足しているはずだ。それにも増して問題となるのは、大半の人には、文章を書く能力がないということだ。

書ける人が、猛烈に羨ましい。予選で敗退した高校球児が、甲子園を見ている時のような気持ち。そうはなれなかった人生を、こうでしかなかった人生が抱えて、それでも生きていく。仕方がないから頑張ろうと思った。