ブログ「いらけれ」

次の仕事が決まるまでは、もう何も書きたくないという気分である。新しく、企業からオファーが送られて来るという転職サイトにも、自分のプロフィールを長々書いて、登録してしまった。仕事をこなすことも、日記を書くことも、息を止めて水に潜っているみたいだ。堪えている時間には粘度があり、ゆっくりとしか流れない。

「僕は死ぬように生きていたくはない」(中村一義「キャノンボール」)という歌詞に、どうしても揺さぶられてしまうような毎日に、心底うんざりさせられている。西村賢太の小説の題名、『どうで死ぬ身の一踊り』を思い出す。中身は読んでないけど。この、だらだらと終わらない生活とは何だ、その答えが分からないまま、とにかくこれは間違いだと、そう確信している。

例えばそれが沈みゆく船ならば、船頭が愚か者だったとしても、早いか遅いかの違いしかないと諦めた乗客は、せめて今、良い思いがしたいと頑張る、ということなのかもしれない。

蝉の声が聞こえなくなった日を見逃した私は、息が白くなった日を捉えた。腰の高さほどの、施錠された小さなごみ置き場の隣に、殺虫剤の容器が不法投棄されていることも。世界はどうかしている。良い雰囲気だった喫茶店が閉店してしまったことも、家の近くのビルの二階のスナックが、何か一言書いたボードを、階段の横のところにかけるようになったことも知った。最近は、帰り道の途中で遠回りして、わざわざその前を通って、昨日の営業中には客が何人来ただとか、今日の夜にお酒が何杯出たら、いくら安くするだとか、どうでもいい情報を確認するようになった。私の生きる世界とは、何一つ関係がない言葉に安心する。それは、私に無理矢理関係付けられた言葉の破片が、日々突き刺さっているからだろう。脅されたり、煽られたりしている。感情を人質に取られている。馬鹿馬鹿しいすべてに吐いた「ふざけんな」は、声にはならなかったが、もごもごと動いた口から白い息が漏れた。

それでも言葉という城を、名も知らぬ他者には明け渡さなかったことが功を奏したのか、僕の12月のカレンダーは、予定がみっしりと詰まっている。あらゆる出来事にとまどい、立ち止まって考えた時間が、魅力になっているのならば嬉しい(というか、売り物になるのは、そうしたユニークネスしかないのだ)。そうして導かれることで初めて、辿り着ける場所があることを知った。暗い部屋に閉じこもっていた虫も、旅に出ることができるのだ。やれることをやればいいのだと心持ちで、「小説的思考塾」の予約をした。このことまで書けたら満足だ、水面から顔を出そう。