ブログ「いらけれ」

多くの人にとって、死ぬまで関係がないであろう画面を、にやにやと見つめていた。
「PageSpeed Insights」は、検索窓に"スピード"と"サイト"の2語を入れれば、ほぼ必ず上位に表示される(はずの)ページだ。ここ最近の僕はこれを使って、このサイトの速度を確認していた。そして、少しずつ高速化のための策を講じていた(具体的に言えば、画像の大きさを変えてファイルサイズを小さくしたり、音声ファイルの置き場所を外部にしたり、アドセンスの自動広告コードを消したりした)。
つい先ほど、昨日の日記をチェックしてみた。言うまでもないことだが、その結果がこれだ。ユーチューブやスポティファイを埋め込んでいると、まだ少し遅くなってしまうのだが、プロジェクトはひとまず成功したと言えるだろう。
単語帳をめくって、テストで良い点数が取れたときのような、夕食から炭水化物を抜いて、体重が減ったときのような、努力と結果の強い結びつきを久々に感じた。報われた、という感じだ。

「ピンポーン」という音が、まるで目覚まし時計のように響いた。慌てて飛び起きて玄関へ向かうと、配達員の制服を着た鹿が立っていて、僕はまだ夢と呼ばれるものの中にいるようだ。帽子の脇から立派な角が伸びている。小刻みに耳が動いている。
小包と、小さくて四角い液晶パネルを手渡されたので、人差し指でサインをした。このようにして書くのならば、画数の多い漢字ではなく、カタカナにすればよかったと後悔した。
袋に入っていたのは、頼んでいたカードゲームだった。カードの入った箱は、人に借りて遊んだときと比べると、一回りほど小さいようだった。だから僕は、まだ夢の中に違いないと思ったが、外のビニールを破って箱を開けると、確かにそれだったというか、もう、それになった。脳内イメージのカードゲームは、しどけなく伸縮した末に、目の前にある大きさで固まった。今の違和感が解消され、過去が上書きされてしまった。
つまり、注文していた「バトルライン」が届いたので、誰か遊びませんか?ということを伝えたい。それならば、鹿など出すべきでないことは分かっている。しかし、嘘ではない本当の真実は、書かずにはいられないものだから書いた。
暇があるという人は、「なんでも箱」から連絡をくれてもいいし、そこに書かれているアドレスにメールをしてくれてもいい。というか、東京から遠く離れているという人でも、何についてでもいいので、送ってください。お願いします。
どうせ今回も来ないだろうと思う。しかし僕はホストとして、めげないことに決めたのだ。この先も折に触れて呼びかけていこう。いずれ会う僕たちのために。

遅く寝たのに、早く起きることができたから、僕は出かけた。そして、面白い話をたくさん聞いてきた。だから、明日はそのことについて書こうと思うのだが……

どうだろう。この、「読まれてたまるか」という意気込みすら感じさせる文字たちは。誰が書いたというのだ。まずは、このメモの解読から始めなければならない。大仕事になるぞ。と、こちらも意気込み返しているところ。

今日の抜き書き。

小説家というのは根っからのひねくれものであり、自分たちが書く小説の中で人生をもう一度組み立て直そうとする人間なのですが、あの亡霊たち(悪魔たち)を通して人はそのような人間になって行くのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28

ブログ「いらけれ」

演劇でも映画でも、見ながらメモを取れば、もう少し詳しく内容を説明したり、思い付いたことを書き残したりできるだろう。でもしないのは、そこで楽しむことが目的だから。自分の手の動きに気を取られたくない。金を貰える仕事ならば別だが、日記は日記で、そこで気の利いたことを書くのは、人生における重要事項ではない。しかし、目の前の作品を楽しむことは、人生において最も大切な仕事だ。

(インターネットに書いてやろうという"意気込み"で、何かを見ること、聞くこと、読むことは、なんだか……狡いと思ってしまうから、僕はしたくない。それは自分のために、他者を利用することにつながってしまうじゃないか)

なんちゃって、自分のことで頭いっぱいになりながら、アスファルトの上。お昼以上夕暮れ未満の時間に、大きな墓場の中。自分のことで頭いっぱい、脳内メーカーしたら"己"の字が詰まってそう。
世界に目を向けると、猫が一匹いて、鋭い視線と睨み合い。警戒感バリバリなのにそいつは、並木の植えられた地面と道路の境目に、まっすぐ伸びている縁石の上だけを歩く。小学生だ!
未だかつて、猫を小学生だと思ったことも、小学生を猫だと思ったこともなかった。しかし、奴のハートは確かに小学生だった。周りは落とし穴で、足を踏み外したら死ぬ、なんて設定を、信じてみたりしていたのだろうか、猫。
鳩も一匹、飛ばずに歩行中。改めてまじまじと見つめる。その車高の低さ。この前山梨へ行ったときに、僕たちをすごいスピードで追い抜いていった車のことを思い出した。少し距離が縮まって、羽を広げそうな雰囲気を二度出して、広げないまま木陰に消えていった。奴にとっては精一杯の威嚇だったのだろうか、鳩。
同じことを繰り返すと、その内に意味が変わる。だから、同じことを書いている。
霊園の外に出て、二人乗りのバイクの後ろの女の人が後ろを気にしていて、もう一台のバイクが後ろに続いていた。それを見た歩道で、とても大きな蚯蚓(みみず)も見た。今、あなたが想像した蚯蚓と同じぐらいの長さで、1.2倍ぐらい太い。針に付けて湖の中に投げ込んでも、湖の主しか食い付けないだろう。そんな想像を掻き立てるデカブツが、道の真ん中でのたうち回っていたから、恐ろしくって端を通った。奴に対しては何の感慨もないが、無事地中に戻れただろうか、蚯蚓。
出会った奴らとの勝手な会話があって、少しも孤独ではなかった。もしかすると、そういう意味では一度も孤独のない人生なのかもしれない。僕と、僕の中の僕と、動植物と無機物。挙げてみればほら、充分だね。

今日の抜き書き。前回の続き。

小説家は自分だけの特権的世界の中で自らをかき立て、書くように求めてくるものについて書こうとします。また、冷静さを失えば、作品の成功はおぼつかないと考えているので、冷ややかなまでに冷静にプロット、あるいはテーマを選び取って行きます。そうでない小説家がいたとすれば、それは本物ではありません。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28

ブログ「いらけれ」

いろんなこと、書き留めておかなければ忘れてしまう。コントを見た後の電車で、一つコントの設定を思い付いたはずなのだが、もう忘れてしまった。何か面白いことをやりたい。ずっとそう思ったまま、ずっとそのまま。旅に出たいと思ったまま、行き先も決めていない。行き先も決めないで、旅に出ても良いのかもしれない、孤独に。

そういえば、今月の「デモクラシーカフェ」のテーマが変わって、「孤独」になったという。先月の感想を書かないまま、だいぶ時間が経ってしまった。関係しそうな本を読んで行ったおかげで、考えのストックができていたから、それなりに話せて良かった。準備は偉大だ。いろんなことを思った。
基本的に僕は、別の角度から光を当てる人でいれば良いのだろう。少し考えれば辿り着ける結論で満足せずに、もっと沈んでいった先に、思いも寄らない可能性が開ける地点、それこそが批評ということだから。それにしても「孤独」かあと思う。僕が、哲学とか現代思想とか呼ばれているものに、興味を持ち始めたきっかけに、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』の内容ではなくタイトルについて、東浩紀が語っていた動画があったことを思い出して、とても懐かしい気持ちになった(今検索したらあったので、さらに懐かしい気持ちが膨らんだ)。
いい加減、「孤独」についてポジティブに語るのも飽きたので、今までとは別の語り方をしたいところだ。それが文学ということだから。

本当に適当だな、と、なぜ言うのか。大きな布団をクリーニングに出すといって、両手で抱えて、「あー、恥ずかしい」と言いながら出ていった。僕はそれを、トイレで座りながら聞いて、あえて口にすることには、内面化しないという効果があるのだろうと思った。自分は適当だと言うことで、自分は適当だということを、恥ずかしいと言うことで、恥ずかしいということを、心の内で受け止めなくて済む。外に出すことで、距離が生まれる。適当さも、恥ずかしさも、確かにそこにあるんだけど、マジじゃなくなる。言葉を発することには、伝達以外の役割と効果がある。だけど、そのことを考えながら生きている人は(ほとんど)いない(はずだ)。だから、生活においてそれは、無意識に行使されているのだろう。


ヨーロッパ企画の暗い旅 #191「中川をもう一度バズらせる旅」(2018年12月22日放送)

ギリギリ絶妙に意地悪で、すごい面白かった。送り手の側にも、その線が分かっていないらしい人はたくさんいる。だから、無数のハズレを引きながら、僅かな当たりに喜んでいる。本当に面白いものは、少ないと思って生きているんだ。

今日の抜き書き。前回の続き。

~すべて排除する人のことなのです。小説家の真実味、あるいは誠実さというのは、その点にかかっています、つまり、自分の内なる悪魔を受け入れ、自分の力のおよぶ範囲内でその悪魔に仕えるということなのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28

ブログ「いらけれ」

これから、日常の死骸としての日記を書くために、日常を定義するとしたら、日常とは、日常が非日常になってしまうほどの悪い出来事は起こらないが、その最悪の予感だけがずっとあって、そして、ずっと小さな悪い出来事が起こり続けているもの、ではないだろうか。

朝起きて、今日一日どうしようかなあと、まだ決めかねていたから、シャワーを浴びながら、徐々に気持ちを固めていった。物事は、やってもいいし、やらなくてもいいことばかりだ。NHKラジオ第1『すっぴん!』月曜日の「勝手にコクゴ審議委員会SP」を聞いていた。言葉について、正しいとか間違っているとか、それを定めるのが難しいことなんて誰でも知っていて、でもなんで言いたくなるのか、それに、正しいらしいことを確認してからでないと言えない、つまり、何かしらの後ろ盾がないと言えない、それは、無責任でありたいという態度であるとともに、そこには、他者に無知を晒して印象を損ねたくないという心理が働いている。この、集団的な病のようなものの原因の一つは、間違いなくインターネットで、要するに、情報があるのに知らない、検索できるのに調べようとしない、ということに対する苛立ちがあるのではないだろうか。そんなことは、聞きながら考えるわけがない。聞いているときには、冷凍食品のナポリタンを食べていた。ナポリタンに、コショウとチューブのからしとマヨネーズを入れたのは、ご飯をチンして入れたから、味が薄くなってしまうと思ったからで、食べてみると意外にイケるなと一瞬思ったものの、しかし、スーパーで売っている弁当の揚げ物の下には、よくケチャップ味のスパゲッティが敷いてあるから、残ってしまったご飯とそれを一緒に食べた時の味で、食べたことがある、それどころか、すでに好きだったことを思い出した。

家を出発したら、渋谷には余裕で着いて、明日のアー『最高のアー』を当日券で見ることができたが、アフターの左右と石川浩司の演奏(最高!)を最後まで聞いてしまったから、『お嬢ちゃん』が上映されるアップリンク吉祥寺が初めてで場所が分からず、街の中を走ってしまった。発券して座ったら、すぐに暗くなった。

なぜだろう。このように僕が、演劇や映画について、遠回しにしか書くことができなくなってしまったのは。つまり、この日記の最初から、2つの作品を頭に置いて書いていたということだ。同時代だからか、一方がユーモア主体、一方がシリアス主体と分かれていても、似ている部分があるように思った。それを表現すると、上記のようになってしまった。数式が狂っていれば、誤った答えが導き出されてしまう。
付言することがあれば、「気まずさ」だろう。行為に対して過剰なリアクションを見せたり、あえて空気を読まずに発言したりする人間が描かれるのは、僕たちの暮らしが、「気まずさ」をいかに回避するかということに支配されているからで、そういう場面を見ると、条件反射的に前のめりになってしまうから、好んで描かれるのだろうと思った。