ブログ「いらけれ」

スマホのアラームの音と一緒に、ひどい息苦しさに見舞われる。吸っても吐いても、ビニール袋を被せられているみたいに、ずっと酸素が取り込めない。徒競走の後みたいに、呼吸と鼓動が速くなる。意識が一瞬遠くなって、死の背中が近付いて見えた。
いつもの発作は、動悸が来てから手足の震えや冷や汗が出るのがパターンだったから、初めての感覚に救急相談の電話をしてしまった。病院に行くこと、もっと言えば救急車を呼ぶことを勧められたのも無理はないくらい、息切れと顎の震えでうまく喋れなくなっていた。しかし、自分の既往歴と、しかし経験したことのない症状であることを、なんとか説明しようとしている内に、呼吸と脈がだんだんと落ち着き始めていたので、電話を切った後に、頓服薬を飲んで壁にもたれ、ヒーリングミュージックを再生しながら様子を見ていたら、いつの間にか眠りに落ちていて、起きたら大丈夫になっていた。

死ななかったのは良かったが、それ以外は最悪なんだ、というパニック障害の気分が伝わるように、あえてホラーっぽく書いたが、本当の本当に最悪なのは、数十分後には何もなかったかのように回復してしまうところなのだ、ということは、体験しないと分からないのだろう。自分の身体/脳/無意識に迷惑をかけられ、それで他人に手間を取らせ、からの元気一杯が、死ぬほど辛い。
一刻も早く医者に行くべきだと分かっているものの、あの病院で覚えた嫌な気分と苦い思い出が、僕にブレーキをかける。次こそは、しっかりと話を聞いてくれるドクターに当たりたいと思って、慎重になる。検索して、口コミを読んで、結局決められないで、保留。

だから普通の顔をして、今日はイオンに行っていた。いわゆる一つの親孝行プレイとして、一階のカレー屋でナンをちぎっていた。前に食べた時より美味しくなっている気がした。100円ショップにも服屋にも欲しいものはなかったから、買い物中に独り、ゲームコーナーのクレーンゲームを見に行ったが、もっと要らないものしか置いてなかった。デカいカプリコとか、デカいカマキリのフィギュア。

歩きなれた道だとしても、誰かが隣にいると風景が変わって見える。川にかかるように幹を伸ばした木に生っている実が、オリーブに似ていることも、初めて気が付いた。あんな実、ピンチョスでしか見たことないけれど、街の中にオリーブなんて植えられているものなのだろうか。あと、なぜ木の葉が赤や黄色に色付くのかも知らない、どこかの教室で教わったのかもしれないが覚えていない、ということも気付いた。謎にまみれた帰路の途中で、もう少し歩数を稼ぐために別れた。

今日の抜き書き。

つまり、真実味のある作家とは、人生が自分に押しつけてくる命令に素直に従ってテーマを選びはするけれども、自分の経験の奥深いところから生まれてきて、これだけは語らなければならないと考えられるテーマ以外のものをすべて排除する人のことなのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28

ブログ「いらけれ」

将棋に負けたことについて、何か言い訳をするつもりはないけれど、昨日の日記を書き終えたのが20時になってしまったのは、どれだけ厳格な神様だって、雷親父だって許してくれるはずだ。4時に寝て7時に起きた寝不足の人間が、休憩時間を含めて、将棋大会の会場に居た時間よりも、行き帰りの車内に座っていた時間の方が長かったのだから、家に着いてすぐ眠ってしまったのも仕方のないことだし、翌日には、まだ辞めてない仕事もあったわけで、むしろ遅くなって当然だと言える。日常はかくも厳しく、毎日書くのは大変だ。それでも進んで行く先に、何があるのかわからない暗闇だからこそ、浮ついた詩のような言葉を残していこうと思う。

もらったお菓子詰め合わせの「マドレーヌ」の包みを開けて、一口食べたら最中の皮で驚いたけれど、衝撃は続いて、とても美味しくて倍驚いたんだ。

花を入れる花ビンもないし、賞状を入れる額縁だってないんだと、ブチ切れつつ歩道を移動する。注文した「バトルライン」が未だに届かないのは、10月下旬から11月上旬にするって言ってた再入荷ができなかったからなのかな。月が変わったから、NetflixとDAZNに入会しようかと思うものの、ならFire TVを購入してからにしたいなどと考えて、結局やめてしまう。入会しているApple Musicは、CDから取り込んだ音楽がライブラリになくて、再取り込みをしなければならなかった。スマートフォンの本体にダウンロードしたはずの曲が聞けなくなることもあるし、本当に使えない。
半袖に薄手のパーカーだと寒い。風も吹いている。ひんやりとした空気は、人生のことを思い出させるが、午前中に部屋に出て、どこかへ行ってしまった蜘蛛と、新しくしたオープン型オンイヤーヘッドホンの、ふかふかとしたカバーの触感しか思い出せない。そうだった。使っている内にカバーが外れるようになって、外れたカバーを手で直しても、それまでとは触り心地が大きく変わってしまって、忘れてしまっていた。けれど、そうだ。一方でしっかりと、それでいて柔らかかったんだ。印象に残っていること、思い出しやすいことばかり思い出してしまう。思い出せなくなってしまうのならば、どうして今、飴を舐めているのだろうか。
忘れてしまったことを思い出したい、それは、小学4年生の頃の担任だった女性教諭が、昨日子どもとお風呂に入っていたら、その子がシャンプーを手に出さず、なぜかその日は頭に直接かけようとして、ポンプに押し出されて飛んだシャンプーが目に入ってしまい、ずっと洗っていたけれど、なかなか痛みが取れなかった、という些末なエピソードのような。その時、僕を消防車のサイレンが追い抜いて、商店街の向こうの団地の前で停まった。近づいてみたけれど、隊員の姿はそこになく、煙が上がっているわけでもなかったから、何が起きたのか分からなかった。この出来事を、僕は記憶しておけるのだろうか?忘れてしまったとしても、何の問題もないだろうけれど、やっぱり少し、嫌っちゃあ嫌だ。

今日の抜き書き。

小説家の証言を見ますと、これこれの物語、人物、状況、プロットが自分の人間性のもっとも奥深いところからでてくる要求のように自分に迫り、つきまとってきたので、それからのがれるためには書くよりほかに方法がなかった、と語っている点で一致しています。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.22-23

ブログ「いらけれ」

あらすじ:「鳥なき里の蝙蝠」として、山梨県で行われる将棋大会に出場することになった後藤さん。前日の夜は、緊張からかなかなか眠りにつくことができず、もう朝だろうという4時にやっと意識を失った。が、7時には目を覚まして身支度、河口湖方面へと向かう車に乗り込んだのだが……

これが、車内から撮影した富士山である。

そしてこちらが、会場となった河口湖店から撮影した富士山だ。しかし、写っているものは、どうにも物足りない。やはり、この目で見たときの、あの迫力には遠く及ばない。山が、信仰の対象となってきた理由が分かる。
僕の日記は回り道をしているが、道中は真っ直ぐ向かっていったはずだった。だが、高速道路は低速道路に成り下がっていて、はっきりと渋滞の一台になっていた。車は、そろそろと"歩いていった"。余裕を見て出発していたのが功を奏して、なんとか開会前に到着することはできた。気合満点で、大会に乗り込んだ。

こういう時って、結果から聞きたくないですか?じゃあ発表すると、テレビ山梨の取材を受けました。ビックリ。着いた時から、局の名前が書かれた名札を首からぶら下げた女の人がいるなあ、とは思っていたのだが。第一回戦のくじで、小さな男の子の隣を引いた僕は、どんなもんかなあとドキドキしながら、大人気無く相手玉を詰まして泣かせるという事件を起こしてしまったものの、こういう状況での応対は得意なので、「もう一局やろう!」などと場を和ませ、結果、一緒に来ていた弟君となぜか仲良くなったりしていたのが、評価されたのだろうか。それとも、一番遠くから来ていたからだろうか。テレビの取材ってこういう風にやるんだへー、参考になるなあと思った。上手く話せるわけもなく、使われてないだろうけど、もし山梨にお住みで、僕がインタビューされているのを見たよという方は、ぜひご連絡ください。

そうして勝ち進んだ決勝で負けるのが僕らしい。しかも、一手明確な失着があって(朝のテレビの占いで、「準備したことが裏目に」って言ってたのに、相手がこの手を指したら、こうしようと手を準備して、それが銀のただ捨てになってしまった)、それは後悔しているけれど、相手の男性は間違いなく僕より強かったので、最終盤までいい勝負ができたのは良かった。あと、初めて感想戦というか、対局中に考えていた読みについて、上位者に尋ねるという経験ができたのも楽しかった。

ウン万円はするんじゃないかという牛肉と優勝は逃したものの、準優勝の栄誉と賞状と高級そうなお菓子の詰め合わせをゲットし、懐を痛めることなくお土産を手に入れることもできたわけで、満足どころか大満足である。来年も大会が開かれたら……泣いていた男の子に決勝で負けるのがフィクションで、何かしらの理由で参加できなかったりするのがリアルなんだろうな。まあ、これからの人生では使えそうにない言葉だから、「必ず忘れ物を取りに行く」って、そう言っておこう。

ブログ「いらけれ」

明日へ向けての準備を終えて、今、こうして書き始めている。部屋の掃除も少しだけやり、燃えるゴミを出した。モニター品として買ったガムのレシートの写真を撮って、ポイントサイトに送った。薄手ながら風を通さないため、本格的な冬の手前や春先にはとても重宝する緑の上着をリュックに入れた(河口湖の辺りは、やはり、東京よりも気温が低いのだろうな)。
しかし、カレンダーは10月のままだし、さまざまなサイトのパスワードをまとめている紙が破れてしまったので、書き直さなければならない。忙しいとまでは思わないけれど、秒の進みが早くなっているような体感。

「Things may not work out how you thought」と、つぶやきながら歩いていたから、すれ違った人はきっと不審に思って、少し距離を取ったのだろう。昼間の空は青く、夜間の空は白い。当然のことだが、夜空にも雲がある。
探しても見つからないものを探しながら歩いてしまう。11月とは思えない暖かさは、太陽のおかげだ。居酒屋のガラス窓の向こうで、後ろに手を組んだ2人の若い兄ちゃんが並ばせられている。そこに貼られた求人さえも、一応確認してしまう。貯金のために寿命を削るような愚かさに対して、できることはそこまで多くない。反省したところで、現実の厳しさが頭をもたげて、新しい仕事なんて見つからないだろうと思ってしまう。もうすぐ28歳だ、高校卒業からもう10年が経ったなんて、とてもじゃないが信じられない。あの頃からずっと地続きなのに、あまりにも遠く離れてしまって、記憶にリアリティがない。
先月の「文化系トークラジオLife」を聞いていて、外伝パート2のチャーリーの「ホストになる人に重要な力量が一つあるとすれば、ただ、めげないこと」という発言にグッとくる。始める前にめげてしまっているから僕は、夜の墓地を独りで歩いていた。西友で買わなければならないガムが、近くの西友になかったから。「誰も集まらなくても、やれ」かあ、と言葉を反芻する頃にはラジオは終わっていて、音楽に変わっていた。
スマホを取り換えてから、まだ端末にダウンロードする作業ができていないアップルミュージックに、出かける直前に入れたゆうらん船の『ゆうらん船2』だけがお供だった。帽子を被る角度を少し深くした。夜の街で、好きなバンドの新しいアルバムを聞く贅沢を、堪能するために。
つながりを欠いた昼と夜を生きて、いつか奇跡のうたを書こうと決意した。そんな大それたこと、今の僕には達成できないだろうから、まずはホストになるところからスタートしよう。参加者募集中だ。

今日の書き抜き。

小説を書くというのは、ストリップのダンサーが観客の前で衣裳を脱いでいって裸体を見せるのと何ら変わりないように思われます。ただ、小説家はこれを逆の手順でやるのです。ショーがはじまったときは素裸だったのが、小説を書いて行くうちに、自らの想像力で作りだした厚地のきらびやかな衣裳を裸体にまとわせて隠して行くのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.21