ブログ「いらけれ」

あのようにして、操作されていることがあからさまだったのは、ある意味においては、悪いことではなかったのかもしれない。つまりそれが、アンドロイド(ロボット)というよりも、操り人形であることを意識させていたのは。

シンポジウムのなかで、幾度か提示された「これでは銅像と変わらないのではないか」という問題は、むしろ、当然その通りだと考えるべきである。漱石の既存のイメージに最大限配慮し、政治的な正しさにも配慮するのならば、当たり障りのないことしか言えないのは初めから分かっていたはずだから、動く銅像になる運命だったわけだし、銅像の役割(功績を称え、シンボルとなる)を担わせることも、企図されていたのではないか(漠然と銅像を求めていたからこそ、朗読劇を作るときに佐藤氏が苦しんだという、「設定の甘さ」が生まれたのではないかと、私は見ている)。

アンドロイドの顔が幼少期の、あるいは晩年の漱石ではないのは、そして、そのアンドロイドが私でもあなたでも、歴史に名を残さなかった人の顔でもないのは、こうした理由からである。銅像にならない人間のアンドロイドは、少なくとも今のところは、作る理由がないのだから作られない。必要性がない限り作られないのだ。だから現状では、複製されることもない(二松学舎大学のプロジェクトに、アンドロイドは二体いらないだろう)。

その一体のアンドロイドを目の前にした人間は、夏目房之介氏の言葉を借りるならば「その気になる」。これが、今回の議論における最大のトピックだった。デスマスクから再現された顔も、房之介氏を参考にしたという声も、当たり前のことながら動きも、作られたものなのだから、話されている内容も、誰かが言わせていることに過ぎない(生まれてから死ぬまでの、すべての発言を分析し、その人の言いそうなことだけを言うAIならば違う、として良いのかどうかも、まだ私には分からない)のに、漱石が言ったことだと受け取ってしまいかねない。A’(漱石アンドロイド)の言った「B」が、聞いた人の内側で、A(漱石)の発言にすり替わる。

アンドロイド(ロボット)という言葉を聞いたとき、私たちは、「自立している」と捉えてしまう、これが「Aが『B』と言った」と掛け合わさったときに、問題は大きくなってしまうのかもれない。

私自身が一番面白いと感じたポイントはここだ、話のなかでは「五木ロボット」が例に出されていた。つまり、漱石アンドロイドはあくまでもパロディに類するものなのであり、そしてパロディはどこまでもパロディであり、誰も本気にしなければ良いということ。虚構を虚構として受け取るリテラシーさえあれば良いということ。着ぐるみの中の人(などいない!)の差異を楽しむように、漱石を解釈して漱石アンドロイドに落とし込んだのは、「脚本家」は誰なのかが分かれば良いということ。「似ている」は本物ではないのだから、作り物として楽しめば良いということ。

(しかし僕は、イベント中に『帰ってきたヒトラー』という映画を思い出していた。劇中のヒトラーのモノマネ、ルックスだけなら似てないとさえ言えるそれを見た人々の示していた反応が、脳裏に蘇っていた。人間の脳が、容易く横滑りしてしまうものならば、パロディも「似ている」も、恐ろしいことを引き起こしかねないのかもしれない。最後に、そう付け加えておこう)