ブログ「いらけれ」

いろんなこと、書き留めておかなければ忘れてしまう。コントを見た後の電車で、一つコントの設定を思い付いたはずなのだが、もう忘れてしまった。何か面白いことをやりたい。ずっとそう思ったまま、ずっとそのまま。旅に出たいと思ったまま、行き先も決めていない。行き先も決めないで、旅に出ても良いのかもしれない、孤独に。

そういえば、今月の「デモクラシーカフェ」のテーマが変わって、「孤独」になったという。先月の感想を書かないまま、だいぶ時間が経ってしまった。関係しそうな本を読んで行ったおかげで、考えのストックができていたから、それなりに話せて良かった。準備は偉大だ。いろんなことを思った。
基本的に僕は、別の角度から光を当てる人でいれば良いのだろう。少し考えれば辿り着ける結論で満足せずに、もっと沈んでいった先に、思いも寄らない可能性が開ける地点、それこそが批評ということだから。それにしても「孤独」かあと思う。僕が、哲学とか現代思想とか呼ばれているものに、興味を持ち始めたきっかけに、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』の内容ではなくタイトルについて、東浩紀が語っていた動画があったことを思い出して、とても懐かしい気持ちになった(今検索したらあったので、さらに懐かしい気持ちが膨らんだ)。
いい加減、「孤独」についてポジティブに語るのも飽きたので、今までとは別の語り方をしたいところだ。それが文学ということだから。

本当に適当だな、と、なぜ言うのか。大きな布団をクリーニングに出すといって、両手で抱えて、「あー、恥ずかしい」と言いながら出ていった。僕はそれを、トイレで座りながら聞いて、あえて口にすることには、内面化しないという効果があるのだろうと思った。自分は適当だと言うことで、自分は適当だということを、恥ずかしいと言うことで、恥ずかしいということを、心の内で受け止めなくて済む。外に出すことで、距離が生まれる。適当さも、恥ずかしさも、確かにそこにあるんだけど、マジじゃなくなる。言葉を発することには、伝達以外の役割と効果がある。だけど、そのことを考えながら生きている人は(ほとんど)いない(はずだ)。だから、生活においてそれは、無意識に行使されているのだろう。


ヨーロッパ企画の暗い旅 #191「中川をもう一度バズらせる旅」(2018年12月22日放送)

ギリギリ絶妙に意地悪で、すごい面白かった。送り手の側にも、その線が分かっていないらしい人はたくさんいる。だから、無数のハズレを引きながら、僅かな当たりに喜んでいる。本当に面白いものは、少ないと思って生きているんだ。

今日の抜き書き。前回の続き。

~すべて排除する人のことなのです。小説家の真実味、あるいは誠実さというのは、その点にかかっています、つまり、自分の内なる悪魔を受け入れ、自分の力のおよぶ範囲内でその悪魔に仕えるということなのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28