ブログ「いらけれ」

手にも爪はあるから爪先だし、足にも指はあるから指先じゃないか!

今日は特別に寒かった。僕は、最近買った薄いダウンジャケットの上に、ノースフェイスの薄いジャケットを着ている。いつにもまして厚くなった身体が、紳士服売り場の鏡に映っている。別に、外気温を確かめてから出てきたというわけでない。本当に偶然、たまたま正解を引き当てたというだけだ。でも、Perfumeの新曲で「偶然性さえ運命さ」って歌詞があったから、そういうことなんじゃない?よく分からないけど、とにかくあの曲良いよね。録音していた「深夜の馬鹿力」でかかっていて、その部分を3回もリピートして聞いてしまった。
どうでもいいことを考えている場合ではない。きっかけを話し始めると長くなって、それに、楽しみを奪ってしまう(楽しみにしている人なんていないぞ?)だろうから、秘密にしておくけど、実はもうすぐももうすぐの来週の火曜日に、旅へ出ることになったのだ。水晶にもタロットにも予言されていなかったような、思ってもみない未来が、ひっくり返した砂が落ちた先にあった。自分でも驚いている内に、すでに雪が降り始めたという街を歩いていたりするのかもしれないね、あなたも。
上半身はタイヤメーカーのキャラクターみたいなのに、下半身はチノ・パンツ一枚というバランスの悪さを何とかしなければならないから、とりあえず、僕を温めてくれるものがないか、チェックだけでもしておこうと思ったから、この道を帰ることになった。タバコ屋のガラス戸の向こう、小首をかしげた子犬の置き物の隣で、本物の犬が舌を出している。
ギターの音は、それぞれに温度が違う。音楽の温度ではない。ギターにだけ温度を感じる。鼓膜がキャッチしたギターが温かい。寄り道をして、エスカレーターを上がった。やっぱりしまむらでいいかなって思った。4階の窓の向こうの、暮れかかった空に見惚れていたのは、僕だけだった。
おおよその準備と手続きは終えている。あとは持っていく物をカバンに詰めて、寒くない格好をするだけだ。バタバタではなく、ワクワクしても許されるだろう。駅北口の近くで今日オープンしたコンビニ(目と鼻の先の建物から、新しくできたビルに移転してきたのだが)はかなりの客入りで、とてもバタバタしていた。家に帰って、リビングのこたつと同化した兄とその話をしたが、なんだか上手くかみ合わない。よくよく聞いてみると、南口の近くで、開店に向けて工事をしていた同じチェーンのコンビニも、今日オープンしたようで、兄はそちらに行っていたらしい。そんなややこしいことしなくても。どうりで、すれ違いコントみたいな会話になってしまうわけだ。作り事みたいな現実に、あっけにとられながら、みかんを一つ、口に入れた。

今日の抜き書き。前回の続き。

~分かちがたく結ばれています。つまり、形式が効果的に機能しているおかげで、人を惹きつけずにはおかない説得力が備わっており、だからこそすぐれた小説になっているのです。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.32

ブログ「いらけれ」

僕たちは居酒屋にいた。あの時と同じように向き合っていたが、メニューが雑多に貼られた店内や、気取らない私服や、隣席の会話というBGMが、僕の劣等感を小さくしていた。お互いの声が聞こえるように、そして、お互いの声を聞き漏らさないように、お互いが身を乗り出して話した。これから十年会わないとは知らずに会話を交わして、それから十年の間に起きたこと。たわい無い身の上話。レモンサワーの氷がカランと鳴り、たくさんの串が筒に刺さった。

あまりにも久しぶりだった、という調味料がなければ、こうして時間を合わせることはなかっただろう。仲が悪かったわけではない。ただ、二人きりで遊ぶほどでもなかった。気の合わなさはジョッキの底へ沈み、アルコールの引力で胸襟が少しずつ開かれていった。

十二単を着ているかのように重たい。横向きの身体をうつぶせて、もう一度枕に顔を沈めた。痛みのある頭の中から、昨日のことを取り出そうとする。あるところからズタズタになっている記憶も、それ以前は、綺麗に保存されていた。

よっちゃんは、浅黒い顔を真っ直ぐにこちらへ向けて、昔の家について話し始めた。よっちゃんの生家は、豪雪地帯として有名な場所にあった。冬になると二階から出入りして、足元の電線を避けなければならなかったという。よっちゃんが中学校へ上がる前に、一家でこちらに越してきたから、今は父方の祖母だけがその家に住んでいる、いや、住んでいたと言う方が正しくなったのは、デイサービスの費用がかさみ、施設に入所したからだ。

誰も住まなくなった古びた家は、取り壊されるしかなかった。よっちゃんは、10月中に再びその家を訪れ、片付けを手伝う予定だったという。しかし、「どうしても仕事が忙しかったり、家に人が来たりしてさ」。なくなってしまった建物の中をもう一度歩けるというVRサービスは、残念ながら、ない。「最後に見ておきたかった」と言うよっちゃんの遠い目の中では、もう思い出せないはずの柱の傷や壁の染みが、像を結んでいるように思えた。

よっちゃんなんて人はいません。「二層式」で読み取ってほしいのは、新宿が上層と下層に分かれていること、エレベーターが上階と下階を結ぶものであること、こちらは5階で、向こうは10階に行こうとしていることです。つまり、ずっと上と下の話なんですね……というのは、全然考えていなかったことで、書き終えてから、タイトルを付けるために読んで気が付いて、書いた僕が驚きました。
明日からはちゃんと、リアルな話をしていきます。こんな出鱈目より、僕のリアルライフの方が面白いんだからね!

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よっちゃんに会った。おおよそ、会いそうにもない場所で。「新宿SJビル」は、大規模な工事中だった。それまで使われていたエントランスは、工事車両の出入のために閉じられ、それどころか、数十メートル手前の歩道から封鎖されている。渡ってきた信号を戻って右に曲がり、50メートルほど真っ直ぐ行って、また信号を渡ったところに、小さな階段がある。遠くからでは見つけられないほど、こじんまりとした階段は、二つの地表を結んでいた。新宿の中を歩いてきたのに、眼下にも新宿があった。これだから都会は嫌だ。降りてまた信号を渡り、やっと仮設の出入口に辿り着いた。

ビニール傘を閉じたり開いたりして、雨粒を飛ばしてから、前もって駅近くのスーパーにわざわざ寄って、そこのごみ箱に捨てずに持ってきた傘袋へと入れる。用意周到、準備万端。スーツを着るのは、どれくらいぶりだろうか。ワイシャツのボタンが苦しい。トイレの鏡で見た紺のネクタイは、自分の性根ほどは曲がっていなかったから、エレベーターフロアに向かった。

よっちゃんはそこにいた。高校生時代のよっちゃんは、はっきり言って頭の悪い男子だった。授業中の態度も、テストの点も悪かった。造作だけは良かったから、将来はホストに、いやヒモになるんじゃないかって、皆が口々に言っていたっけ。

懐かしさに浸っていた時間は短かった。こちらに気が付いて、驚いた表情をしたよっちゃんに、「久しぶり」と言った。面接で来たことを告げて、下りてきたエレベーターに乗り込みながら、「そっちは?」と尋ねた。最先端のスピードで、すぐ目的の5階に到着してしまったから、よっちゃんは10階のボタンを押していたのに、開いたドアから出た。

ビルの一階で座っていた。白いテーブルに手を置きながら、スマートフォンを眺めるふりで、周囲を窺う。大きなビルなのに、ほとんど人はいなかった。テーブルとイスは、他にもいくつか設置されていたけれど、誰も使っていなかった。10分後によっちゃんは来た。本当に、ビジネスマンのなかのビジネスマンといった装いと面持ちだ。笑ってしまいそうになる。

お世辞にも偏差値が高いとは言えない大学に進学したよっちゃんは、そこで、人が変わったように勉学に勤しんだ、というわけではなかったみたいだ。人当たりの良さと見た目と、あと、少しの運がよっちゃんに味方した。代返と、ちゃんと出席していた人のノートと、ゼミやサークルの先輩とのつながりを駆使した。そうやって、上手くやれる人がいることを、僕は知っていた。差し向かいで腰掛けている自分が、とても惨めに思えた。あの面接の調子では、契約社員にすらなれないことが、分かり切っていたから。

話を終えて外に出ても、雨は降り続いていた。よっちゃんの連絡先が登録されたスマホにイヤホンを刺して、駅へと向かう。よっちゃんには仕事があったが、僕には自由な時間があった。ツイッターで話題になっていた映画を見よう。何かを忘れるために。行き先を変更した僕は、傘も差さずに大股で新宿を歩いた。

ブログ「いらけれ」

次の仕事が決まるまでは、もう何も書きたくないという気分である。新しく、企業からオファーが送られて来るという転職サイトにも、自分のプロフィールを長々書いて、登録してしまった。仕事をこなすことも、日記を書くことも、息を止めて水に潜っているみたいだ。堪えている時間には粘度があり、ゆっくりとしか流れない。

「僕は死ぬように生きていたくはない」(中村一義「キャノンボール」)という歌詞に、どうしても揺さぶられてしまうような毎日に、心底うんざりさせられている。西村賢太の小説の題名、『どうで死ぬ身の一踊り』を思い出す。中身は読んでないけど。この、だらだらと終わらない生活とは何だ、その答えが分からないまま、とにかくこれは間違いだと、そう確信している。

例えばそれが沈みゆく船ならば、船頭が愚か者だったとしても、早いか遅いかの違いしかないと諦めた乗客は、せめて今、良い思いがしたいと頑張る、ということなのかもしれない。

蝉の声が聞こえなくなった日を見逃した私は、息が白くなった日を捉えた。腰の高さほどの、施錠された小さなごみ置き場の隣に、殺虫剤の容器が不法投棄されていることも。世界はどうかしている。良い雰囲気だった喫茶店が閉店してしまったことも、家の近くのビルの二階のスナックが、何か一言書いたボードを、階段の横のところにかけるようになったことも知った。最近は、帰り道の途中で遠回りして、わざわざその前を通って、昨日の営業中には客が何人来ただとか、今日の夜にお酒が何杯出たら、いくら安くするだとか、どうでもいい情報を確認するようになった。私の生きる世界とは、何一つ関係がない言葉に安心する。それは、私に無理矢理関係付けられた言葉の破片が、日々突き刺さっているからだろう。脅されたり、煽られたりしている。感情を人質に取られている。馬鹿馬鹿しいすべてに吐いた「ふざけんな」は、声にはならなかったが、もごもごと動いた口から白い息が漏れた。

それでも言葉という城を、名も知らぬ他者には明け渡さなかったことが功を奏したのか、僕の12月のカレンダーは、予定がみっしりと詰まっている。あらゆる出来事にとまどい、立ち止まって考えた時間が、魅力になっているのならば嬉しい(というか、売り物になるのは、そうしたユニークネスしかないのだ)。そうして導かれることで初めて、辿り着ける場所があることを知った。暗い部屋に閉じこもっていた虫も、旅に出ることができるのだ。やれることをやればいいのだと心持ちで、「小説的思考塾」の予約をした。このことまで書けたら満足だ、水面から顔を出そう。