ブログ「いらけれ」

Aが「B」と言った。

そのようにして書けない。しかし、「感想-5 「真実」をめぐる物語として」において、「すべて私の責任」と書いてしまうほど警戒している人間というのは、時代遅れなのかもしれない。

なぜ書けないのか。「Aが『B』と言った」を読んで、「B」を私の意見だと考える者はいないだろう(いたとしたら、とても残念な人である)。これは本当に恐ろしいことで、例えば私は、「B」ではなく「『C』と言った」と書くこともできる。つまり、Aの発言を私の側で変えることができる、いとも簡単に。

もちろん、「そんなものは訂正すればいい」と、あなたは考えるだろうか。確かに、大々的な週刊誌の報道や、ラジオ番組での発言(最近、そういう”事件”もありましたね)ならば、そういったことも可能かもしれない。しかし、言われた側が、間違いを正すコストをかけなければならないというのは、端的におかしい。それに、ツイッターの細かなつぶやきをすべてチェックするというのも大変だ。数百、数千RTならば、大した影響力はないとするのか。一つのRTもされてないツイートでも、検索にひっかかれば、後から来た誰かの目に触れてしまう可能性はある。

さらに。口が無い者には、訂正の手段はない。つまり、死んだ人間については、これまでも勝手言われ放題だったのだ。偉人にまつわるエピソードは、数え切れないほど創作されてきたのだ、だから、アンドロイドとして蘇らせて、何を語らせてもいいだろう、とはならないのはなぜか。

漱石のアンドロイドは、まだまだ改善の余地があるという。客席に座った私は、舞台に座るそれを見て、蝋人形館を思い出した。蝋人形館には、動くマイケル・ジャクソンがいても不自然ではない。なめらかに挙動するわけでもなく、ホールの音声トラブルで「マイクのテスト中」と言わされていた漱石は、その程度のものと考えるべきなのかもしれない。少なくとも、今のところは。

パネラーの菊地氏は「テクノロジー忖度」というユニークな言葉を使っていた。例えば、すでに仕掛けの分かっているVR、見えるかぎりにおいては、ビルの屋上から突き出た板の上にいるように思えるものの、実際は部屋の中という場合、こちら側から気持ちを寄せていかなければならない。漱石アンドロイドも、現状ではその段階にあるということだ。こちら側が積極的に参加し、あの漱石が目の前にいるかのように振る舞わなければ、動く蝋人形と変わらなくなってしまう。だから、今はまだ幸福な戯れの時間なのであり(手を振ったら、手を振り返してくれるので、小さな子どもが漱石アンドロイドで、言うなれば遊んでいた)、当分問題は起こらないのかもしれないが、問題が起こってから考えるのでは遅いから、あのようなイベントが開催されたのだろう。(続く)