ブログ「いらけれ」

これから、日常の死骸としての日記を書くために、日常を定義するとしたら、日常とは、日常が非日常になってしまうほどの悪い出来事は起こらないが、その最悪の予感だけがずっとあって、そして、ずっと小さな悪い出来事が起こり続けているもの、ではないだろうか。

朝起きて、今日一日どうしようかなあと、まだ決めかねていたから、シャワーを浴びながら、徐々に気持ちを固めていった。物事は、やってもいいし、やらなくてもいいことばかりだ。NHKラジオ第1『すっぴん!』月曜日の「勝手にコクゴ審議委員会SP」を聞いていた。言葉について、正しいとか間違っているとか、それを定めるのが難しいことなんて誰でも知っていて、でもなんで言いたくなるのか、それに、正しいらしいことを確認してからでないと言えない、つまり、何かしらの後ろ盾がないと言えない、それは、無責任でありたいという態度であるとともに、そこには、他者に無知を晒して印象を損ねたくないという心理が働いている。この、集団的な病のようなものの原因の一つは、間違いなくインターネットで、要するに、情報があるのに知らない、検索できるのに調べようとしない、ということに対する苛立ちがあるのではないだろうか。そんなことは、聞きながら考えるわけがない。聞いているときには、冷凍食品のナポリタンを食べていた。ナポリタンに、コショウとチューブのからしとマヨネーズを入れたのは、ご飯をチンして入れたから、味が薄くなってしまうと思ったからで、食べてみると意外にイケるなと一瞬思ったものの、しかし、スーパーで売っている弁当の揚げ物の下には、よくケチャップ味のスパゲッティが敷いてあるから、残ってしまったご飯とそれを一緒に食べた時の味で、食べたことがある、それどころか、すでに好きだったことを思い出した。

家を出発したら、渋谷には余裕で着いて、明日のアー『最高のアー』を当日券で見ることができたが、アフターの左右と石川浩司の演奏(最高!)を最後まで聞いてしまったから、『お嬢ちゃん』が上映されるアップリンク吉祥寺が初めてで場所が分からず、街の中を走ってしまった。発券して座ったら、すぐに暗くなった。

なぜだろう。このように僕が、演劇や映画について、遠回しにしか書くことができなくなってしまったのは。つまり、この日記の最初から、2つの作品を頭に置いて書いていたということだ。同時代だからか、一方がユーモア主体、一方がシリアス主体と分かれていても、似ている部分があるように思った。それを表現すると、上記のようになってしまった。数式が狂っていれば、誤った答えが導き出されてしまう。
付言することがあれば、「気まずさ」だろう。行為に対して過剰なリアクションを見せたり、あえて空気を読まずに発言したりする人間が描かれるのは、僕たちの暮らしが、「気まずさ」をいかに回避するかということに支配されているからで、そういう場面を見ると、条件反射的に前のめりになってしまうから、好んで描かれるのだろうと思った。