演劇でも映画でも、見ながらメモを取れば、もう少し詳しく内容を説明したり、思い付いたことを書き残したりできるだろう。でもしないのは、そこで楽しむことが目的だから。自分の手の動きに気を取られたくない。金を貰える仕事ならば別だが、日記は日記で、そこで気の利いたことを書くのは、人生における重要事項ではない。しかし、目の前の作品を楽しむことは、人生において最も大切な仕事だ。
(インターネットに書いてやろうという"意気込み"で、何かを見ること、聞くこと、読むことは、なんだか……狡いと思ってしまうから、僕はしたくない。それは自分のために、他者を利用することにつながってしまうじゃないか)
なんちゃって、自分のことで頭いっぱいになりながら、アスファルトの上。お昼以上夕暮れ未満の時間に、大きな墓場の中。自分のことで頭いっぱい、脳内メーカーしたら"己"の字が詰まってそう。
世界に目を向けると、猫が一匹いて、鋭い視線と睨み合い。警戒感バリバリなのにそいつは、並木の植えられた地面と道路の境目に、まっすぐ伸びている縁石の上だけを歩く。小学生だ!
未だかつて、猫を小学生だと思ったことも、小学生を猫だと思ったこともなかった。しかし、奴のハートは確かに小学生だった。周りは落とし穴で、足を踏み外したら死ぬ、なんて設定を、信じてみたりしていたのだろうか、猫。
鳩も一匹、飛ばずに歩行中。改めてまじまじと見つめる。その車高の低さ。この前山梨へ行ったときに、僕たちをすごいスピードで追い抜いていった車のことを思い出した。少し距離が縮まって、羽を広げそうな雰囲気を二度出して、広げないまま木陰に消えていった。奴にとっては精一杯の威嚇だったのだろうか、鳩。
同じことを繰り返すと、その内に意味が変わる。だから、同じことを書いている。
霊園の外に出て、二人乗りのバイクの後ろの女の人が後ろを気にしていて、もう一台のバイクが後ろに続いていた。それを見た歩道で、とても大きな蚯蚓(みみず)も見た。今、あなたが想像した蚯蚓と同じぐらいの長さで、1.2倍ぐらい太い。針に付けて湖の中に投げ込んでも、湖の主しか食い付けないだろう。そんな想像を掻き立てるデカブツが、道の真ん中でのたうち回っていたから、恐ろしくって端を通った。奴に対しては何の感慨もないが、無事地中に戻れただろうか、蚯蚓。
出会った奴らとの勝手な会話があって、少しも孤独ではなかった。もしかすると、そういう意味では一度も孤独のない人生なのかもしれない。僕と、僕の中の僕と、動植物と無機物。挙げてみればほら、充分だね。
今日の抜き書き。前回の続き。
小説家は自分だけの特権的世界の中で自らをかき立て、書くように求めてくるものについて書こうとします。また、冷静さを失えば、作品の成功はおぼつかないと考えているので、冷ややかなまでに冷静にプロット、あるいはテーマを選び取って行きます。そうでない小説家がいたとすれば、それは本物ではありません。
バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.28