ブログ「いらけれ」

読まなければいけない本を読む間に、少し心の余裕を持って、大きな霊園を歩く。もう夜が早くなっていて、7時には真っ暗。少し怖い。Bluetoothのイヤホンを買ってからというもの、非常にQOLが上がっていてそれはいいのだが、スマートフォンから電波が飛んでいる(線がつながっていない)と、なんだか幽霊の声が入り込みそうなんて思って、また少し怖くなる。なに考えてるんだろう。馬鹿かな。

聞いていたのは「音楽ガハハ」の9月の回で(9月21日には再放送があるよ)、「勝手に音楽ベスト1」ってコーナーの今回のテーマが「なぜか泣ける曲」で、やついいちろうさんの「恋しくて」って映画の話がすごい面白かったんだけど、で、自分にとって泣ける曲ってなんだろうって考えていて、あんまりピンとくるのがないなあと思いながら、新企画のコーナーも楽しく聞いていて、番組が終わった後、Apple Musicのランダム再生で流れてきたのがこの曲だった。


都合のいいジャンプ バンドTOMOVSKY

そうかあと思った。この曲だって思った。神の采配だと思った。歌詞が「自分に未練が~」と始まったときにはもう目が潤んでいたし、「ヒトのために目を覚まし~」というサビのところでは、泣きながら街を歩いていたのが僕だった。歌詞が素晴らしすぎる。
「未練がないと言えるほどやりきったわけじゃない」、「ヒトのために息を吸わないと、そうしないと破裂する」「近くを見ていたら猫背のまんま、このまんまだ」というような内容の言葉たちから分かることは、今は未練があり、人のために生きられておらず、近くばかり見てしまっているということだ。つまり、それは向こうにあるものであり、これから達成されるべき理想だということだ。
だから、仕事に悩んで自分に固執していた自分に気づかされた。誰かのために生きたいと思った。私利私欲のためではなく、大したものではない自分なんかのためではなくて。自分の人生を他人事みたいに思って。
自分にこびりついた自分の意識が、自分の身体から引き剥がされて、少し俯瞰できたとき、僕は泣きそうになる。あまりにきれいな夕日が海に沈んでいく景色に、はっきりと小ささを理解させられるときのように。

トモフスキーの歌詞が良いって、なにを今更って感じですよね。しかし、『SKIP』の「気まずい空気を吸い続ける努力が報われた歴史を僕は知らない」とか聞いてしまうと、やっぱり、どうしようもなくなってしまうんだ。

そんで夜には「シブヤノオトPresents TWICEリクエストLIVE」も、ちゃんと見る。あのメドレーのリクエストの二択は、実質一択では。久しぶりに「Like OOH-AHH」を見て、やはりこれだなって思う。あの曲は特別だ。あと、リクエストの投票数によって、パフォーマンスする楽曲が決まるという仕組みだったわけですが、そのランキングが、テレビ的に完璧な適切な順番で、ONCEのみなさんが分かっているのか、それとも誰かの手によって……いや、そんなはずはないと思うけど。
そんで、アイドルの本質が分かって、それは資本主義の妖精なんだってことで、彼女たちは資本主義なしには存在しない。『可能なる革命』を読み終わって資本主義をもう一度思案し始めている僕は、それがいいことなのか、それとも悪いことなのかサッパリ分からなくなって、それとデビューしてから3年近くを経て、すべてのトラブルやアクシデントを、それも"撮れ高"として処理していく彼女たちのプロ性に対して、そりゃ「こちとら3年やっとんじゃ」(もちろんこんな口調で話すわけないが)っていう誇りもあるだろうけれど、プロとして成長していく彼女たちに対して、それにも戸惑ってしまう。踊りながらも完璧なカメラ目線に。僕が好きになったのは、そこではなかったから。

ブログ「いらけれ」

不倫をしている人が、不倫をしていますとはブログに書かない。つまり、人生には書かない(書けない)ことの方が多いわけで、だから期待しないでほしい。僕が言えるのは、某大手出版社のトイレが、映画館のそれのようだったということと、入口に守衛がいるなんてねっていうこと、僕の好きなサッカー中継でおなじみの実況アナウンサーの方を見かけたということだ。面白いような、そうでもないような毎日。

歌わない人を信用しない。歌うことだけが、人間を許す。踊らない人も信用しない。踊ることだけが、人間を試す。

他人の悪行を責めて、このように非難する私はマトモみたいな発言をする人は、押しなべてダメだと思う。そういう人は、一度よく考えた方がいい。間違いは誰にでも開かれているというのはもちろん、間違えた人をいかに許すかだけが、人類全体のテーマなのだから。他人には寛容でいたい、たとえそれが、どれだけ酷い犯罪だったとしても。

荷物が多かったので、携帯電話を充電するものを何も持っていかなかったら、帰りの電車の中で、バッテリーがなくなった。混雑した車内だったものの座れていたので、目を閉じて、頭の中の暗闇を久しぶりに覗き見る。小間使いでとても疲れていたので(翌日に携帯電話が計っていた歩数を見たら、1万7000歩を超えていた)、座っていても腰が痛かった。仕事のことを思う。いくらこれが小説とはいえ、書けないことが多すぎる。言えるのは辛いことだけ。サッカー選手は、試合で失敗ばかりすればクビに近い立場に追われるけど、サラリーマンはそうじゃない。サラリーマンという形式のことを考えるために目を閉じていると、どこにいるか分からなくなる電車は。「暮らしの裏ヒント手帳」に、「山手線で目を閉じて、ある程度の時間が経過したあとに、どこにいるか当てる遊び」を送ったらどうかと思うけれど、たぶん電車にグルグル乗り続けるのってルール違反だろうな、だったら読まれるはずもないなと思う。代わりに、街をすごい速さで走っているイメージをする。家がビルが飛んでいく。通勤は旅だ、一時間もの旅である。しかし、これだけの速度で移動して、東京都内から出られないなんて。そう考えると新幹線は本当に早いなあって、小3の男の子じゃないんだから。
駅に着くと、縁起の悪い地獄の声がした。ただ雨が強くなって、雨粒が屋根を叩く音がしていただけだった。

今日は一日本を読むぞ(明日が借りている本の返却期限のため)という決意を固めるものの、そんな自分との約束は、本当に守られるのかどうか分からない。……というかあなた、今すぐ書かずに読むべきでは?

ブログ「いらけれ」

断片的な言葉を書いている。断片的な言葉を書いているのは、書きたいことがあるからだ。それもたくさん。これを読むキッカケはなんでもいい。検索で間違ってクリックしてしまったとかでもいい。なにか一つでも引っかかればいい。たらたら長い小説を書いて、一行で言えるテーマがぼんやり浮かぶ(そして、それを喜ぶ!)ような、それなら一行で言えばいいということだから、だから一行で書く。それを並べる。固いものも柔らかいものも、美味いものも不味いものもあるミックスナッツのように。

痛み。純粋な痛み。痛みを見つめている。痛みがなければ苦しまないのに。痛みがなくて苦しまなかった人は、そういった人々は人類の主流にはならなかった。痛み。神経痛。肩掛けカバンを使っているからか。あれ2~3㎏あるから。忘れ物多いから、とりあえず全部入れてるから。肩掛けカバンって体に悪いらしい。肩と、それにつながる筋の痛み。痛み。痛みが人生のテーマのような気がする。僕の人生は痛みだ。苦しみではない。

人生が上手くいかないっていうのはいいねえ。味がある。すべてが悪い方に転ぶ様は滑稽。まるでわざとやっているみたいだ。皆が勝手に俺に期待する。皆が勝手に俺に失望する。知るかっつうの。俺のせいではない。俺は悪くない。このまま死にたくはない。犬を模したものは犬ではない。山を模したものは山ではない。人を模したものは人ではありません。人ではありませんので人生ではありません。人が人ではないと感じるとき人はもう人ではない。人のふりをして人ならぬものが人の世を生きている。この世がいいと思うかい?だから人にはなりたくない。人ではない人に与えらた役割はない。人ではない人にできることはない。ただ周縁から中心を見るのみである。中心には人が居る。人が作る中心は腐る。人でなしが歩いてく、人でなしであることを誇って。


TWICE「Be as ONE」Document Video

泣いてたまるかと思って見て泣いた。映像と音楽が特別なのではなくて(事実少しだけ「ONE IN A MILLION」をかけてくれないかなって思ってしまった)、彼女たちが特別なのだし、彼女たちの紡いできた物語が特別なのだ。映像を見て、この一年ほどのことを思って、思い出して泣くわけですよ。喜びと苦労を知っているわけでね。アイドルとアイドルファンというのは、素晴らしい時を持てるものなのだなあと、心底思った。

ブログ「いらけれ」

「2018/09/12 今日のボイスメモ」
収録トライ、3度目のチャレンジにして成功したので、ポッドキャストが更新されやんした(みんな聞いてー、なんならコメントしてー)。実は、この日も公園にはお婆さんがいて、ぐるぐる歩き回っていたので(健康のためかな?)、片隅に腰かけて待っていたんです、15分くらい。こういった困難の先に、この音声があるのだと思うと、尊いもののようにも感じられませんか?やっぱり、どーでもいいものでしょうか。どちらにしても、なんだとしても、内容に関しては改善の余地ありって感じなので、もっと面白くなりたいです。

今日もまた寝すぎてしまった(約9時間)。疲れているからなのかな。寝たくないわけではないけれど、7時間くらいにはしたい。僕には時間がないのでね。でも、起きようとしても脳が真っ暗で、起きることができないんだよな。病気かな。

絵ということを考える。もちろん絵を見ながら、文章のことを考えている。絵は見れば分かる。絵は見れば分かるというのは本当か。見て、本当に分かっているのか。そもそも分かるとは何か。音楽だってそうだ。聞けば分かるのか、分かるとは何か。絵や音楽に触れて、心に浮かぶ何かが、なによりもまず優先されるべきなのか。それとも、対象の背景や構造を理解して見えてくるものがホンモノなのか。
文章を書くというのは難しい。読まれることを考えなければならない。まず読むとは何かということから考えなければならない。そして、読まれた先に何を残すかということを考えなければならない。ほとんどノイローゼである。

身体性身体性言いすぎというか、身体的に納得感があるものも、間違う可能性があるからこそ理性なんじゃない?って思うけど。もちろん『啓蒙の弁証法』的な?理性の暴走的な?なにかっていうのもあるのかもしれないけど、まずは理性が大事ってところから話始めないとアカンのではないのだろうか。

子どもだったころに、僕は大勢の人の前で、毎週のように泣かされていたように思う。友達たちに、僕のした行為をなんらか報告されて、帰りの会で謝らせられていたのだった。大声で叱責されて、涙を流していた。学校行くの、嫌だったな。今だったら、あの教師は問題になるのだろうか。

「深夜の馬鹿力」で、伊集院光が「哲学的なこと、小難しいことに逃げているときは、精子を出したいときだと、高校生の頃に思うようになった」って話をしていて、これ、少し前に千葉雅也がツイートしてたけど、フロイトのリビドーの話だよなあって聞いていた。