ブログ「いらけれ」

まったく余裕のないブログと、ブログの運営。一つのストックもない。それはもちろん、僕が書いていないのが悪い(別に書かなくてもいいものなので、悪いもなにもない)んです。期せずして、本当にブログのようになってるじゃないかい、はっはっは、笑う(真顔で)。
僕が、僕としてあるための条件として、毎日書くことがあって、あってというか、いつの間にかそうなって、だから、発表するとかしないとかの範疇を超えて、ブログを更新するとかしないとかの範疇を超えて、ただ書いている、息を吸って吐くように。せっかく書いたから見せてあげる、くらいの感じでいる。

日本シリーズがすごい試合だー。野球好きとしては、本当にずっと見ていたいような駆け引きと、それが生み出す緊張感と、それを打ち壊す破壊力のある打線と、それを抑えるレベルの高いピッチングと、また、それを打つバッターと……って、いかんいかん、野球好きが爆発してしもうた。
本当にすごいものは、見れば分かるというけれど、素人は分かっているつもりで、何もわかっていないということってあると思うんだよ。素人には、150キロを投げられる凄さも、それを打ち返せる凄さも、本当には分からないわけでね。パッと見で分かったつもりになるくらいなら、分からないことを言語化して、分かったことも言語化していきたい。そうしなければならない。そう思っている人がいるかぎり、語る言葉は死なない。

ブログ運営に余裕がなくなった理由の一つが、突然に入った面接だ。Wordで作ってあった履歴書のフォーマットに、久しぶりに日付を入れて、あと経歴に今のバイト先を入れて、志望動機を書いた。これを印刷するのにコンビニのコピー機を使う。あと、貼り付ける写真がなかったので、大昔に撮って、スマホに保存してある証明写真のデータを、証明写真機まで行って、印刷しなければならない。だから外に出るのだ、そのためにまずは書類を、という強い意志を持ってパソコンに向かった朝から、今日にはもっと違うことがしたかった、それはいつだってそうだし、今だってそうだ!もっと違うことがしたかった。そんなことを思いながら外に出たら、文句ない青空!用事を済ませたあとも、気分が良くなった僕は、そのまま少しだけ散歩した。

これは小さな歌。誰にも聞こえなかった。ただ僕が、ここで歌った歌。とても個人的で、とても小さな。プライベートブランドのウイスキーを飲みながら生きている。とても安い、最底辺の暮らし。最底辺が暮らす歌。最底辺が歌う歌。これは詩、これは文学。どちらでもない、最底辺の言葉。

ブログ「いらけれ」

『ユリイカ2018年11月号 特集=K-POPスタディーズ』の執筆陣を見て、とても安心した。この世には、ちゃんと仕事をしている人がいるんだなって思って、書くべき人に書かせる人がいるんだなって思って。お金ないけど、買うしかないかな。

たまたまYouTubeのおすすめで、それまでスポーツの動画を見ていたから、「NANDA!?」の速い球の回が出てきて、それに伊良部が出ていた。伊良部のことを思い出して、それでWikipediaを読んで悲しくなった。動画で解説されている理論が、とても素晴らしかっただけに。そして、エイミー・ワインハウスのことも思った。才能があって、それによって人生を変えられてしまって、早世してしまった人。才能も、それで注目されることも、凡人にはないから、実相は何も分からないけれど。

借りていた『現代思想史入門』が読み終わんねー!うぉー!あと300ページ無理だー!うぉー!と土曜日の夜中に叫びながら読んで、眠くなったので寝て起きて、朝食をとって、NHK杯の谷川九段を横目に読んで、日当たりの良い窓際に移動して読んで、昼間からウイスキーを傾けながら読んで、読んでいたら読了したのでビックリした。内容はあまり覚えていない。
そんで、図書館へ移動する間で、粋な夜電波を聞いて、なんか元気が出る。菊地さんの打ち切りハイがやや移るように。黒幕こと長谷川Pも出てたし。「Hello, Goodbye」は名曲だなあ。本当は、この世にビートルズだけあればいいんじゃないだろうか、という気になる。あと、その時は知る由もないけれど、後に番組についてのフェイスブックとツイッターでの声明も読むし。
あとは、バッチリな仕事さえあれば完璧だーなんて思って、意気揚々と図書館に入って、刹那にどんよりする。大して内容を覚えていなかった『現代思想史入門』が、ここに来て効いてくる。現代思想史を回覧したつもりになって、それで、もう満足というか、本とか、どうでもよくなってしまって、一冊も選べない俺!!色あせて見える背表紙たちの前で、そのまま一時間。「最新ビデオの棚の前で2時間以上も立ちつくして何も借りれない」!うぉー!その気持ち分かるよー!
そうして夜が更けて、朝んなって、いろいろあって、応募していた企業から面接の連絡来て、履歴書も作らなくてはいけないのが今。焦るのってテンションアガるから、うぉー!って言いながらブログを書いている。

みんな、少しずつの後ろめたさを持って生きている。生まれたばかりの赤ん坊のように、一点の曇りもないなんて、そんなことはない。いけないことは、いけません。でも、一回の失敗を前面化して、切り捨ててしまうのならば、世界には、一人も大人がいなくなってしまう。そしてそれは、あなたも例外ではない。

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「特別編-対話のボイスメモ2-2」
はい、ポッドキャストが更新されましたよー。52分ですよー。とても長いけれど、それなり内容があるし、聞く価値があるんじゃないかな。人間について話題になっているのは、20世紀の後だからしょうがないというか、こういう問いしか残っていないという気もするよ。とにかく、あなたが聞かないと次回がないよ!お願いだから聞いてくれー。

昨日頑張ってしまった分(「10/21 デモクラシーCafe@東村山」ってこれ2000字ですよ!)、今日のやる気が出ねー。あのように、昨日のように、毎日同じように書けたら、僕もプロになれるだろうになあ。プロになりたいなあ。ツイッターの保坂和志のボットで、自分で課題を決めてその通りにやるということは、自分が成長していないということだし、そうやって自分を縛ることは、自分を楽にすることだというのは、本当にそうだと思う。僕は、毎日1000字書くことにしているんで、それが長いものを書くことを阻害しているとも感じていて、こんなのやめて、真剣に小説書いたらいいのに。小説なんて書いたところで、何かになるわけじゃない。図書館に行けば、古典的名作がたくさんある。それを読めばいいと思う。こんなことを、日本シリーズの第一戦を見ながら書いている、と、第一戦を見ながら書きたかったけれど、その時には構想するのみで、書くことはできなかった。もうダメかもしれないと思う。どうしたらいいんだろう、どうしたらいいと思う?

夕方から夜になる、そのころに歩いていて、遮断機が上がって、踏切を渡るときに目に入った、青いライトが投げかけるものは大きい。こんなもので死ぬ気が失せるなんて、そして、そうやって自殺を止めようとする人がいるなんて、人間なんて、なんてもう下らない。

特定のトピックについて語りたいわけじゃないと前置きしておこう。今では多様性が大切だって言われているし、意見の幅が、ある程度確保されていることになっているし、そのはずだ。でも、特に知識人に顕著だけれども、みんな同じことを言うし、それしか認めないし、基本的に正解とみられる方を向いてしゃべるじゃんか。実はそこに多様性はなくて、違う意見を言う人が、「立場の違い」として許容されることはない。僕はそういう人たちに、寛容になれとは言わないけれど、この世のどこかには絶対の正しさがあり、私はそれを目指していて、だから、それに依拠しようとしているかぎりは、あなたを攻撃してもいいと思っていると、正直に言うべきだと思う。

ブログ「いらけれ」

先週の日曜日に、「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきました。とても楽しかったので、私のように若くて(「26歳が若いのか問題」は、別途ありますが)、哲学カフェや対話カフェに参加してみたいけど迷っている、という方の参考になればと、少し文章を書いてみますね。

今月のテーマは「道徳は教えることができるの?」。そもそもデモクラシーカフェとはなんぞやということや、今月の詳しい内容については会のブログ(写っていますね、恥ずかしい><)に任せるとして、僕の持ち帰ったものを。

「道徳」ということを考えるとき、それは、いつどこでも変わらない法則のようなものなのか、時代や場所によって変わるものなのかというのが問題になるようです。例えば、現在では誰かを奴隷として扱うことは間違いだと思われていますが、以前はそうではなかった。だから、「道徳」は変わりうるものであり、相対的なものとして捉えることもできるし、いや、その当時の考えが、今では誤りであると分かるように、人類は、漸進的に普遍的な道徳に近づいている、だから、普遍的な道徳のイデア?みたいなものが措定できると考えることもできる。

まあ、これはその人の立場とまではいかないけれども、考え方の癖のようなものであって、違いがあっていいし、その違いを理解さえすればいい思います。正解のないことですから。そして話は、小学校などで「道徳」が正式な教科になることについて、どう考えるべきかに移っていくわけですが……ここでの対話が難儀でした。

もちろん僕も、この施策には批判的ですし、容易に国家(あるいは、現政権とそれを支援する人々)に利用されかねないことにも同意します。都合のいい人間をつくるために、「道徳」が利用されるのではないかという危惧も当然でしょう。また、理想的な人間像を勝手に作り、それを押し付けるべきではないという意見も確かです。

しかし、それならばこそ問題は、この施策が実施されようとしていること、つまり、これを良いと思い、これを良いと思っている政治家を支持する人が多いということなのではないでしょうか。「問題だよね、ダメだよね」と言って、"こちら側"で頷き合っていては、普通に「道徳」が教科化して終わりです。どうしても話が、いや話されている場の空気が、そういうものになってしまっている気がして、そこまで静かに聞いていた僕が、突然議論をかき回したわけですが(あの強引なやり方が正しかったのかは、今でも悩むところです)。

現実を変えるためにこそ、向こう側にいる人との回路を開かなければならないし、その方法を考えるためにこそ、この対話というものが有用なのではないかと思います。会が終わった後に、生活の中で誰かと話し合い、何か大切なものを伝えるときが、ここで対話した経験を活かすときなのでしょう。考えたり、聞いたり、話したりすることが、とても大変なことであることを理解し、会話の経験を持ち帰ることが大切なのかなと、その場にいながら考えていました。

また、これは余談ですが、今のやり方を批判し、例えば、こうした道徳教育を疑うような人間になるように育てるべきだ、というとき、そこには「道徳教育を疑うような人間」が、押し付けられる理想の人間像として、置かれてしまうのではないか…などと、考えてしまいました。難しいですね。

とにかく、こんなことを真面目に話しあう場があり、真剣に語り合っている人々に、静かにとても感動していました。お開きになった後にまで、僕の疑問に答えてくれた方もいて、本当にありがたかったですし、泣くほど嬉しかったです。実はみんな、いろんなことを知っていて、いろんなことを考えているんだけど、言う場がないんですよね。とくに、僕ぐらいの年代になると、ひとつもシリアスに語り合うことがない。だから、自分と同じようにシリアスに、現実社会に向き合って、物事を考えている人の存在を、知ったこと自体が喜びでした。

会の運営や、話し合いのファシリテーションは、非常に大変だと思います。とくに話し合いの場においては、どうしても小さな上下関係ができてしまうものです。年上/年下、男性/女性などで、前者が教え、後者が聞くという形になってしまいがちです。これは、現在の社会がそうなっているからで、しょうがないところもあります(もちろん、現実を変えていかなければならないでしょう)。

その条件の中で、対話を成立させるために、運営の方々は尽力されています(本当にお疲れ様です!)。なので、誰でも参加できると思いますし、若い方や女性にもっと加わってもらいたいです。午後のひと時を"対話"で、過ごしてみてはいかがでしょうか。迷っている方には、勇気を出してほしい!(やっと冒頭の話に戻ってきた)。たぶん、僕もいるし…って、これはプラス情報じゃないですか笑。