ブログ「いらけれ」

西武新宿駅の、あの外から二階に上がるエレベーターの隣で、西武ライオンズの試合をパブリックビューイングしている(もうすぐ優勝だからね)。人だかりを避けて、エレベーターに乗っていたら、おじさんが「ょおssし!」というような、表記できない奇声を上げていた。思うに、そこでは奇声を上げることこそが主で、試合結果は二の次になっている。おじさん、奇声をあげるキッカケがほしかったのではないか。抑圧、抑圧、あらゆる抑圧とストレスに対して、私たちはブチキレたいけど、それも抑圧している。だから、ストレスの発散になるならなんでもいいし、解消のためならなんでも使う。ストレスがあることこそがおかしいと気づき、抑圧されないような暮らしを目指すようなことはせずに。

やつが久しぶりに来た。しかも、朝の電車の中で。ドア際に立って、ラジオを聞いている普通の朝だった。普通の朝のはずだった。急行でパニックが来る怖さはとてつもない。薬だって忘れずに飲んだのに。必要以上にゆっくりと、カバンからお茶を出して、落ち着き払った風に飲む。走っている電車の中で、急に青ざめてペットボトルを取り出したのだ、落ち着いているわけがない。
パニック障害は、特別が起こす病だ。息が苦しくなるたびに、今までの経験を思い出す。毎回死ななかったし、毎回なんでもなくなった。そんなことは分かっている。でも毎回、「絶対に今回の苦しさは特別で、今回のコレで死ぬ」って思う。パニック障害じゃなくて、心臓病とかじゃないかって思う、毎回。
ありきたりの一回が、その渦中にいる人には特別に見える。これは、すべての現実がそうだ。毎回、今回の恋人こそは特別だって思って、蜜月が終わったあとに振り返れば、ただの一回の恋愛に収まってしまう。本当に特別な瞬間なんて、そうそうないと知りながら、それでも勘違いをせずにいられないのが人間で、人生だ。
こういうことを考えられるから、文学者にとって、パニック障害はごちそうだと思うことにした。味わいつくさなければ、もったいない。

映画館に行きたい。映画館に行くと幸福度が上がるという調査を見た気がする。映画館に行きたい。我慢しているのは、お金がないから。この驚くべきことの起こる職場で、薄給で、ものを書いていていいのだろうか。ところで、書きたいものを書くとアクセス0で、書きたくないもののアクセスが万っていうのは悲しいものがあるね(もちろん、書かれている場所の差もデカいのだけれど)。早く違う仕事を掛け持たなければ。お金のなさに精神的に追い詰められてきているし、やめてもこっちがあるって思うために。


泉まくら『明日を待っている』 pro.by LIBRO

いつからかな?
まだ起こってもないことに苦しんだり
こんな心でも分かるように
take it easy 言い聞かせてる

ブログ「いらけれ」

「2018/09/26 今日のボイスメモ」
僕のやっているポッドキャストが更新されました。楽しみにしている方、おめでとうございます(そんな人はいない)。今回はおじいさんとの戦いに勝って、というか、ただ帰るまでやり過ごして、録音した20分ほどの音声ですが、大した話はしていないので、僕のファンの方に聞いていただければと(そんな人はいない)。
しかし、あまりに広がりを見せないこの現状はどうすべきなのかということ。アップルから来ていた英文メールをグーグル翻訳したところ、なんかポッドキャストのマーケティングのベストプラクティス云々って書いてあったから、アップルさんになんとかしてもらった方がいいのだろうか。いや、そうではないだろう。
多分、半分匿名とかいう、この中途半端な姿勢がよくないのだ。僕は、新しく生まれ変わらなければならない(でなければ死んでしまう!)。動かなければならない、半分強迫的にそう思う。

批評家たちが現代の批評と、批評家たちについて語っているのを「ほー」と楽しみながらも、難しいなーと思った。難しいのは内容ではなくて、時代についてだ。
大体において、いつだっておおらかな僕でも、語っている、時には批判しているその人自身に対して「お前どうなん?」って思ってしまう、中には現在進行形で問題になっている人もいたりするとね。よく言う「自分を括弧に入れた」発言っていうのは、今では無理なのかもしれない。言われた言葉と、言っている人が、分かちがたく結びついてしまうとき、それもネット的ツッコミの目にさらされてしまうとき、それは悪いことばかりではないとしても、もちろん害もあるだろう。

ベンチに座ったら喉がいがらっぽくて唾を吐いたとき、そこに生えていたシロツメクサが目に映ったときのことを思い出したら、その記憶は、シロツメクサの上を飛ぶトンボと結びついた。今日は、トンボは、帰り道に死んでいた。くしゃっとなったそれはハチかと思ったら、長い胴体があって、羽は半透明だった。トンボは幼少期から無数に見たけど、トンボの死体を見たことはなかった。だからトンボは死なないと思っていたわけではなかったが、その姿を見てショックを受けた。

後からまとめて見る人っていうのは残酷で、誰某が、最初は良いって言ってたのをここでは悪いって言っているとか、右が左とか、色んなことが分かってしまうと同時に、そこに流れていた時間を無視して、変わるに至った経緯を無視して、分かった気になってしまうわけだけど、でも、それもしょうがないのだ、そういう構造が世界だから。環境や構造に左右されるのが人間だから。僕はだから、一方では社会反映論を否定しながら、現実と関わらなければならないと言う人に対しても、全部を分かったつもりにならないでいようと思う。

ブログ「いらけれ」

下らない金稼ぎは、何が無くなるとか消えるとか、そんなこと言ったって、結局、新しいところでまた復活するだけだ。それがしょうもない現実だって分かって、それでも何かをしたいのならば、ロマンティック承知で、持ち場で頑張るしかないでしょうと思う(ルポライターの鈴木大介さんのツイートは感動的で、非常に啓発されている)。僕はまだ向こう側の人間で、お金がないからしょうがないでしょとか思っているぐずで、本当は違うことしたいんだよって思っている。
いつだって仕事やめてやるって思っていなければな、自分!今月いくら稼いだとかいって、安心しているけれど、よく考えるまでもなく薄給だしな(薄給はハッキュウであってFワードではないぞ)。それに、やりたいことでもないのだろう?意志がなければならない。

この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる?

舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』

色んな人の読んでほしいので、試行錯誤を続けなければならない。それで、思いついちゃったので、またサイトをいじろうと思う。それに合わせて、ツイッターの使い方も変えていこうと思う。こう宣言すれば、未来のいつかの自分がやってくれるだろう。
追記:さっそく、ほったらかしにしていた旧アカウントの方を再起動させた。これからはそちらとも連動していこうと思うし、ツイッターに実存をかけていこうと思う。エモくなければ、生き抜いていけないからさ。それで、また新しい動きをしてみたりして、「動かなかったらそのまま」というのは焦りでしかないとしても、自分から動くことで切り拓いて生きたい。自分を活かすために。

書くものを書きたいものにするために、企画を提案するときに少しだけ自分の色を入れてみた。もちろん、書かせてもらえないかもしれないけれど、そうやって"領土"を広げていく野心がないのならば、本当に今やっていることが労働になってしまう。仕事という言葉には、ただの金儲けとは違う意味も宿っていて、だからパンを食べたエネルギーを文字に変えている、その文字の連なりを有意義なものにするために、といって最初の文章に戻る。

メタリックな時代、デスクトップ、プラスチック。酔った人間の与太話でも、その人に興味があれば聞けるのだなと思った午前4時には、「あいつはアイドル〈偶像〉である」と言っているその人自身がアイドル的な受け取られ方をしていることについてどう思っているのかが分からない。


毛玉 – タイガー・アイランド / Kedama- TIGER ISLAND

本当に良い曲ですよね。毛玉大好き。PVも面白いと思うし。僕も虎になってもかまわないよ!!

ブログ「いらけれ」

何が表で何が裏なのか分からなくなってしまった。僕の実存は、両方にかけられていながら、そのどちらでもない。ありふれた「表が建前で、裏が本音」という訳でもない。かといって、表が本音で、裏が建前でもない。だから、二つに分かれた僕に、表と裏というような性格付けが、そもそも間違っているのであって、いうなればAとBというようなものだ。それは僕の血液型がAB型であるのと同じように……って、ただツイッターアカウントを二つ持ってるのが、なんかなーって思っただけで、血液型で人の性格が分かるとか信じているわけじゃないし、ほらこのように、ここにだって嘘があって、すべては虚実の皮膜の上にあって。

半透明のあんかけの中のブロッコリー越しの、ゆっくりと回る観覧車は野球場の向こうにあって、客席に飛び込む白球は、四角い画面に映し出されている。見ている中華料理屋でゆっくりと過ぎる時間は、土曜日の午後二時にだけ許されている。
私は、味による快楽、あるいは不快という無為の向こうにあるもの、もしくはこちら側にあるものの事を考える。いずれ来る救済に向けて、いまここで労働するわけでもなく、時間が通過するのを待つように、ただ5円玉をつなげて塔を作ったり城を作ったりしている父の、その灰色の背中が脳裏に浮かぶ。心の平安が欲しい、中華丼を食べ終わる前に。

仕事で内実を知っているから「あなた、お金をもらっているではないですか。それに、言えばいくらでも訂正できるし、掲載を取りやめることもできる。そもそも問題があるなら直接言えばいいのに、ツイッターで文句を書くのは、フォロワーへのアピールでしょ」っていう案件を見かけた。ここに名前を書いて批判しない程度にはどうでもいいことだし、僕も同じ穴の狢だけどさ。
よくツイッターとかで裏側を邪推している人がいる、でもそれは大抵的外れだ。また、当事者の振る舞いや発言には、利害がさまざまに絡み合っていて、すべてが正しいというわけじゃない。黙っている人だけが知っている、語られない真実というのが世界にはある。なのに、外側から何かを知った気になる。
指先での反応で生きる僕たちが、適当な言葉に流されていくのは仕方がないのだろうか。僕もそれに加担しているところもあるし、ポリコレに目覚めても、人間などという愚かな存在は100%真っ当ではいられないというのが真理だ。それが真理だとして、問われるのは、そこから何ができるかだろうと、僕に思う。