ブログ「いらけれ」

労働が、嫌でござる、嫌でござると働いている。本を読むのは、(予想外の発見とかあるし)基本的にはいいことなのだけど、『可能なる革命』に出てきたバートルビーを思い出して、「その仕事は、私がしないほうがいいかと思います」と言ってやろうかと考えている僕には、逆効果だったのかもしれない。ダメだ、職場で『現代日本の批評』を読んでも、この嫌悪は解消されなかった。なによりもまず、休憩して本を読むくらいなら、早く終えて早く帰ろうと思ってしまう。本を持っていくのはやめにしよう、重いし。

資本主義という宗教において、労働が信仰と同じだとして、資本主義という宗教が、他の宗教、例えばキリスト教と違うのは、救済が毎月来ることだろう。給料日という名の。あるいは、いずれまとまった給料が払われると知りながら、この一時間がいくらになるか、時給を思い浮かべながら働いているとき、そこではすでに信仰と救済が同時に行われているのかもしれない。いずれにしても資本主義は、信仰すれば金という救済の訪れる宗教なのではないかと、雀の涙ほどの金額が振り込まれた通帳を見ながら思った。

ヤフーのニュースでネタバレしてしまったんだが、「ヘル・イン・ア・セル」のシナリオを考えたん誰やねん。めっさ腹立つわ~。ユニバースの大半が「ふざけんな」って思ってるんちゃう?なんかこう、WWEがまた迷走してきている気がするので、早いとこトリプルHさんに頑張ってもらわないと(これはまったくの余談だが、ジャニーズの後継者にタッキーがなるって話を聞いてすぐ、これ、WWEをビンスからトリプルHが引き継ごうとしているのと相似形だよなって思った。パフォーマーが裏方に回るという意味で。誰か指摘してんのかなあ。タッキーが、ジャニーの娘と結婚していれば、完璧に同じなのだがなあ……【トリプルHは、ビンスの娘であるステファニーと結婚しているから】)。

そうそう、給料が振り込まれたんだ、僕の口座に。それを祝して(?)、平成26年以来していなかった通帳記帳をしてみた。ATMの前で二分くらい待たされた。しかも、平成26年の7月から平成27年の8月まで、まとめて記帳されている。なかなか見ない表記だね、あれは。そんなことはどうでもよくって、一年以上ぶりに働いて、一年以上ぶりに支払われた対価に、それを引き出してポケット入れたときに、親に借りていた金を少し上乗せして返せたことに、感じた気持ちを絶対に忘れないでおこうと思った。この高揚感と安堵感と、少しだけ混じる苦みを、いつか小説に書こうと思った。

ミックスナッツカスタマイズにハマっていて、ごま油と大量のコショウをかけたり、それをチンして冷ましたりしているわけだが、当初の目的であった「ご飯の合間に食べることで、空腹を抑えダイエットに」っていうのはどっかにいってしまった。飛んでって多分、今は火星の辺りにいると思う。

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大澤真幸『可能なる革命』を読み終える。午前中に。NHK杯を横目に。批評と言うのはなんだか、「牽強付会」なもの(ここでも使いましたね、この言葉)だなあと、「あまちゃん」であるとか、「桐島~」の分析を読みながら思い、オタクに関する言及のところでは、もう笑ってしまった(鉄オタは世界の普遍性を鉄道に見ているのだ!)。終わりの辺り、SEALDsの名前が出てきた辺りからは面白く、読んだ甲斐はあった(結論部分の尻切れトンボ感は拭えないものの)。
とくに印象に残ったのは、ベンヤミンの書いた「宗教としての資本主義」についてのところで、タイトル通り、(一見そうではないように思われているが)資本主義は(極端で絶対的な)宗教であるということを書いているらしいのだが、それはまあいい。詳しく知りたい人は読めばいい。そこの記述への注で、資本主義という宗教について、ベンヤミンが指摘しているという特徴の一つが面白かった。
曰く、宗教は人の罪を浄化するものだが、資本主義はその逆で、人に罪を着せる宗教であり、信仰(資本主義において信仰はイコール労働である)すればするほどに、罪の意識が深まる宗教であるというのだ。これはつまり、ここにある文章を読んでいる人ならば分かることだろうが、僕がずっと考えていることであり、僕がずっと悩んでいることと関わっている(例えば「人間という存在の”無理”」で書いた、資本主義に最適化した1%の、ドナルド・トランプ的開き直り感の根源には、もちろん開き直りというからには、稼ぐという行為に対して「悪いことをしている」という実感があるはずだというのが、あの文書を書いていたときの僕の直感である)。資本主義(という宗教)、労働、罪という見取り図を得て、非常に腑に落ちたとともに、本を読むのはいいなあなんて、ぼんやりしていた。

『現代日本の批評』と、『シャーデンフロイデ』という、どちらもキレイな本を借りる。そこから歩いてダイエーまで行って、トップバリューのミックスナッツを買う(量、質ともにかなり良し)。改装中だった二階にダイソーができている。前の100円ショップより大きい。職場で使うスリッパと、布製品の消臭スプレーを買う(名前「ファブリック」って!)。消臭スプレーがすごいありそうなのに見つからなくて、30分くらい探した。買えたのだから、その時間も無駄ではなかった。帰り道に父親とすれ違っていたらしい。これっぽっちも気付かなかった。

図書館の帰りに、近くの公園でやっている祭りにも立ち寄ってみた。食べ物屋がいっぱい出ていたのだが、それよりもなによりも、東村山市ってこんなに子どもがいるんだってくらいの家族連れ、それもマイルドヤンキー的な人でいっぱいだった(『可能なる革命』的に表記するならば、ここも〈地元〉だったのだ)。そこではっきりと、僕は働きに出かけている都会と同様、この〈地元〉にも疎外されているんだってことに気づいてしまった。居場所ってないんだなって思った。都会-郊外-田舎の、そのどこにも定位できないとすれば、そのどこでも仕事や家族といったものを形成できないとすれば……。

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読まなければいけない本を読む間に、少し心の余裕を持って、大きな霊園を歩く。もう夜が早くなっていて、7時には真っ暗。少し怖い。Bluetoothのイヤホンを買ってからというもの、非常にQOLが上がっていてそれはいいのだが、スマートフォンから電波が飛んでいる(線がつながっていない)と、なんだか幽霊の声が入り込みそうなんて思って、また少し怖くなる。なに考えてるんだろう。馬鹿かな。

聞いていたのは「音楽ガハハ」の9月の回で(9月21日には再放送があるよ)、「勝手に音楽ベスト1」ってコーナーの今回のテーマが「なぜか泣ける曲」で、やついいちろうさんの「恋しくて」って映画の話がすごい面白かったんだけど、で、自分にとって泣ける曲ってなんだろうって考えていて、あんまりピンとくるのがないなあと思いながら、新企画のコーナーも楽しく聞いていて、番組が終わった後、Apple Musicのランダム再生で流れてきたのがこの曲だった。


都合のいいジャンプ バンドTOMOVSKY

そうかあと思った。この曲だって思った。神の采配だと思った。歌詞が「自分に未練が~」と始まったときにはもう目が潤んでいたし、「ヒトのために目を覚まし~」というサビのところでは、泣きながら街を歩いていたのが僕だった。歌詞が素晴らしすぎる。
「未練がないと言えるほどやりきったわけじゃない」、「ヒトのために息を吸わないと、そうしないと破裂する」「近くを見ていたら猫背のまんま、このまんまだ」というような内容の言葉たちから分かることは、今は未練があり、人のために生きられておらず、近くばかり見てしまっているということだ。つまり、それは向こうにあるものであり、これから達成されるべき理想だということだ。
だから、仕事に悩んで自分に固執していた自分に気づかされた。誰かのために生きたいと思った。私利私欲のためではなく、大したものではない自分なんかのためではなくて。自分の人生を他人事みたいに思って。
自分にこびりついた自分の意識が、自分の身体から引き剥がされて、少し俯瞰できたとき、僕は泣きそうになる。あまりにきれいな夕日が海に沈んでいく景色に、はっきりと小ささを理解させられるときのように。

トモフスキーの歌詞が良いって、なにを今更って感じですよね。しかし、『SKIP』の「気まずい空気を吸い続ける努力が報われた歴史を僕は知らない」とか聞いてしまうと、やっぱり、どうしようもなくなってしまうんだ。

そんで夜には「シブヤノオトPresents TWICEリクエストLIVE」も、ちゃんと見る。あのメドレーのリクエストの二択は、実質一択では。久しぶりに「Like OOH-AHH」を見て、やはりこれだなって思う。あの曲は特別だ。あと、リクエストの投票数によって、パフォーマンスする楽曲が決まるという仕組みだったわけですが、そのランキングが、テレビ的に完璧な適切な順番で、ONCEのみなさんが分かっているのか、それとも誰かの手によって……いや、そんなはずはないと思うけど。
そんで、アイドルの本質が分かって、それは資本主義の妖精なんだってことで、彼女たちは資本主義なしには存在しない。『可能なる革命』を読み終わって資本主義をもう一度思案し始めている僕は、それがいいことなのか、それとも悪いことなのかサッパリ分からなくなって、それとデビューしてから3年近くを経て、すべてのトラブルやアクシデントを、それも”撮れ高”として処理していく彼女たちのプロ性に対して、そりゃ「こちとら3年やっとんじゃ」(もちろんこんな口調で話すわけないが)っていう誇りもあるだろうけれど、プロとして成長していく彼女たちに対して、それにも戸惑ってしまう。踊りながらも完璧なカメラ目線に。僕が好きになったのは、そこではなかったから。

ブログ「いらけれ」

不倫をしている人が、不倫をしていますとはブログに書かない。つまり、人生には書かない(書けない)ことの方が多いわけで、だから期待しないでほしい。僕が言えるのは、某大手出版社のトイレが、映画館のそれのようだったということと、入口に守衛がいるなんてねっていうこと、僕の好きなサッカー中継でおなじみの実況アナウンサーの方を見かけたということだ。面白いような、そうでもないような毎日。

歌わない人を信用しない。歌うことだけが、人間を許す。踊らない人も信用しない。踊ることだけが、人間を試す。

他人の悪行を責めて、このように非難する私はマトモみたいな発言をする人は、押しなべてダメだと思う。そういう人は、一度よく考えた方がいい。間違いは誰にでも開かれているというのはもちろん、間違えた人をいかに許すかだけが、人類全体のテーマなのだから。他人には寛容でいたい、たとえそれが、どれだけ酷い犯罪だったとしても。

荷物が多かったので、携帯電話を充電するものを何も持っていかなかったら、帰りの電車の中で、バッテリーがなくなった。混雑した車内だったものの座れていたので、目を閉じて、頭の中の暗闇を久しぶりに覗き見る。小間使いでとても疲れていたので(翌日に携帯電話が計っていた歩数を見たら、1万7000歩を超えていた)、座っていても腰が痛かった。仕事のことを思う。いくらこれが小説とはいえ、書けないことが多すぎる。言えるのは辛いことだけ。サッカー選手は、試合で失敗ばかりすればクビに近い立場に追われるけど、サラリーマンはそうじゃない。サラリーマンという形式のことを考えるために目を閉じていると、どこにいるか分からなくなる電車は。「暮らしの裏ヒント手帳」に、「山手線で目を閉じて、ある程度の時間が経過したあとに、どこにいるか当てる遊び」を送ったらどうかと思うけれど、たぶん電車にグルグル乗り続けるのってルール違反だろうな、だったら読まれるはずもないなと思う。代わりに、街をすごい速さで走っているイメージをする。家がビルが飛んでいく。通勤は旅だ、一時間もの旅である。しかし、これだけの速度で移動して、東京都内から出られないなんて。そう考えると新幹線は本当に早いなあって、小3の男の子じゃないんだから。
駅に着くと、縁起の悪い地獄の声がした。ただ雨が強くなって、雨粒が屋根を叩く音がしていただけだった。

今日は一日本を読むぞ(明日が借りている本の返却期限のため)という決意を固めるものの、そんな自分との約束は、本当に守られるのかどうか分からない。……というかあなた、今すぐ書かずに読むべきでは?