ブログ「いらけれ」

「2018/09/26 今日のボイスメモ」
僕のやっているポッドキャストが更新されました。楽しみにしている方、おめでとうございます(そんな人はいない)。今回はおじいさんとの戦いに勝って、というか、ただ帰るまでやり過ごして、録音した20分ほどの音声ですが、大した話はしていないので、僕のファンの方に聞いていただければと(そんな人はいない)。
しかし、あまりに広がりを見せないこの現状はどうすべきなのかということ。アップルから来ていた英文メールをグーグル翻訳したところ、なんかポッドキャストのマーケティングのベストプラクティス云々って書いてあったから、アップルさんになんとかしてもらった方がいいのだろうか。いや、そうではないだろう。
多分、半分匿名とかいう、この中途半端な姿勢がよくないのだ。僕は、新しく生まれ変わらなければならない(でなければ死んでしまう!)。動かなければならない、半分強迫的にそう思う。

批評家たちが現代の批評と、批評家たちについて語っているのを「ほー」と楽しみながらも、難しいなーと思った。難しいのは内容ではなくて、時代についてだ。
大体において、いつだっておおらかな僕でも、語っている、時には批判しているその人自身に対して「お前どうなん?」って思ってしまう、中には現在進行形で問題になっている人もいたりするとね。よく言う「自分を括弧に入れた」発言っていうのは、今では無理なのかもしれない。言われた言葉と、言っている人が、分かちがたく結びついてしまうとき、それもネット的ツッコミの目にさらされてしまうとき、それは悪いことばかりではないとしても、もちろん害もあるだろう。

ベンチに座ったら喉がいがらっぽくて唾を吐いたとき、そこに生えていたシロツメクサが目に映ったときのことを思い出したら、その記憶は、シロツメクサの上を飛ぶトンボと結びついた。今日は、トンボは、帰り道に死んでいた。くしゃっとなったそれはハチかと思ったら、長い胴体があって、羽は半透明だった。トンボは幼少期から無数に見たけど、トンボの死体を見たことはなかった。だからトンボは死なないと思っていたわけではなかったが、その姿を見てショックを受けた。

後からまとめて見る人っていうのは残酷で、誰某が、最初は良いって言ってたのをここでは悪いって言っているとか、右が左とか、色んなことが分かってしまうと同時に、そこに流れていた時間を無視して、変わるに至った経緯を無視して、分かった気になってしまうわけだけど、でも、それもしょうがないのだ、そういう構造が世界だから。環境や構造に左右されるのが人間だから。僕はだから、一方では社会反映論を否定しながら、現実と関わらなければならないと言う人に対しても、全部を分かったつもりにならないでいようと思う。