いくらでも書けるという気になっている。昨日だって1000文字を30分で書けたからな、はっはっは。だが、こんなことを続けていたら、いつか呆れられてしまうのではないだろうか。もしくは、もうすでに。とはいえ表現とは、つねに呆れられてしまうようなものである。呆れられてしまうようなことをしない人は芸術家とは呼べない。僕は芸術家ではないけど。いや、芸術家か?今からでも芸術家と名乗るべきなのか?ツイッターのプロフィールに追記しておくべきか?というか、なぜ最近ツイッターのプロフィールを変えたのか?
「試用期間で仕事をクビにならなかったので、まだ続けるだろう。だから、一応ライターって肩書きを名乗ってもいいかな。あと、この前のブログをきっかけに久しぶりに読んだ「裏2017年」が、やはり何度自分で読み返してみても面白いとしか思えないという"うぬぼれ"もあるし、批評家は自称しておこう。あと、読まれて問題があるようなことは大して書いてないが、現実世界でつながりのある人に詰問されても困るから、架空の存在ということにしておこう(あと、「頭痛派後藤」という名前にして、これはオルターエゴということにしておこう)」
……という心の動きがあったため、プロフィール文を変えました。でも、僕は僕なので、肩書が変わったからといって、面白くなったりはしません。そんな僕を、これからもよろしくお願いします。
明日職場で食べるパンを買いに業務スーパーへ行ったら、マンゴープリンが紙パックで売っていた。レアチーズケーキや杏仁豆腐も売っていた。7~8人分で250円が安いのか高いのか分からない。買って、家でパックを開いて、ふるふると皿に出して、味はおいしかったのだけれど、大きい皿だったから、おそらく一人前の量はあったのに、少し物足りなさを感じた。
ソースの時代だ。みんなが口々に「ソースだせ」って言っていた意味が分かった。何を情報源としているかによって、その人間の思想が決定されてしまう。全面的に信頼できる発信者などいないことが明らかになった現代では、情報を信じることが主体の判断に任されてしまう。今の時代、従来の権威はバカにされてもいて、学問に対する「とりあえずこれを信じればいい」という当たり前の態度が、足元から切り崩されてしまっている。自分の信じたい何かに不都合な情報は、すべて陰謀論だと脳内で処理できてしまう人々に対して、何が言えるのか。彼らを変えることが、はたして本当にできるのだろうか。
とにかく「思ったこと」を書けと、環境が命令してくるインターネットでは主観が前面化する。しかし、インターネットで主観が前面化しているのは自分だけではなく、自分とは全く違う主観の存在を常に意識させられる。だからインターネットの書き込みは、ものすごく他人を意識した、他人からどう見られているかに気を使いすぎている主観になる。つまり、書かれた言葉は(空想上の他者なのだが)一度他者を通ったものとなり、自分の主観は他者に認証されたものとして、正当性を過剰に見出してしまう。自分の意見は完全に正しいものだと思い込めてしまう人々に対して、何が言えるのか。彼らが変わることが、はたして本当にできるのだろうか。