ブログ「いらけれ」

僕たちには知らなくていいことがある。今の僕たちは、知らなくていいことまで、あまりに知りすぎている。とはいえ、知るべきことだけ知るなんて無理だし、知らなくていいことを知らないふりできるかといったら、そういうわけでもない。知ってしまったら、知ってしまったように生きるしかない。しかし、本当に知るべきことは、本当に知りづらいところにあるものだね。

「倉本聰の偉大さについて——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」17」
ライターにとって、怖いコラムだった。確かに、カルチャーを扱うサイト(アレやアレ)のインタビュー記事って、今大体こういう感じだよね。文体は、無意識のレベルで作られているという面があり、それが恐ろしいわけで。
しかし、多くの人がアレを読みやすいと思っているとしたら、PVが伸びるだろうし、むしろああやって書くだろうというのも想像できる。これは難しい問題だなって思ったり。
とにかく、金もらって物を書く人は、内容よりもまず文章に対して特別な気づかいをしなければならない。最低限。その先ってなると、また違うものが問われるってことで。(全部わざとだよ)

『ぐっとくる題名』を読み終えたので、図書館で返却。次はなに借りようかとふらふらしていたら、大澤真幸の『可能なる革命』を手にとってしまう。"しまう"って書いたのは、大澤真幸の本なんて何度も読んでいるわけで、「知っている著者の本を借りない」という自分ルールに反しているからだ。でも、読んでみたかったんだもの。それで、時間的に厳しいし、だいぶ負担になるけれど、二冊借りることにした。社会学の棚で目に留まったのはジュリア・カジェ『なぜネット社会ほど権力の暴走を招くのか』で、それにした。書名が興味の中心に近いというのが大きな理由で、著者プロフィールに「夫は『21世紀の資本』著者トマ・ピケティ氏。」ってあったから借りたわけではない。でも、それはそれで後押しにはなった。読み終えられるかな、まあ無理なら人生で初めて延長すればいいか。


洪申豪 – Morning / 吠吠狼TV

自分のブログを見返すことも、一度聞いた曲をもう一度聞くこともあって、それで、僕にとって大事なものが、他の人にとってはそうではないかもしれないことが、鮮烈に分かった瞬間があったんだ。
僕がこうして"かろうじて"生きていること、この今にいることを可能にした宝物だって、誰かにとっては道端の石と変わらないのかもしれない。でも、それはそれでいい、それはそれでいいだろう。誰かの宝物だって、僕にとっては道端の石だ。
ただ、それが僕の中で、とっても大事であることを尊重してほしい。大事だと思っているものをではない、大事だと思っていることをだ。その思いをだ。それはもちろん、誰かが何かを大事だと思っていることを、僕は尊重しようと思うという、そういうことでもある。
お互い大事なものを抱えて、そして、お互い大事にしているものがあることを尊重しあうなんて、なんと素晴らしいことだろうか。僕たちの間に、それが実現したとしたら、どれだけ素晴らしい世界になるだろうか。これが、僕の理想。