ブログ「いらけれ」

このブログをちゃんと書くことにした5月から、来る日も来る日も書いている。書くこと自体に快楽があって、というか、楽しいと思っていないとやってられない。楽しいということにしている。しかし、昨日のブログのことは、どれだけ分かってもらえているのだろうか。最初に、「知るべきことが知りづらい場所にある」って書いてあって、その通り一番いいことが最後に書いてあるという。こういうことを考えているから、大衆性がないのだろう。どんな企みも、まったく届かないまま、ただただ毎日が過ぎていく。

書けども書けども上手く書けないという日々が続いている。上手く書けないという苦しみがある。才能のあるなしと、やりたいやりたくないの掛け合わせを考えてみる。才能があってやりたい人は幸せだし、才能がなくてやりたくない人も幸せだ。才能があって、やりたくない人も大抵幸せだ。やりたくないのだから、才能自体に気付かないことも多いだろうし、何かのきっかけで才能を知ったとしても、やりたくないならやらなければいいわけだ。中原昌也みたいに、書きたくないのに書かされる、書かねばならないことの方がレアケースだろう。
で、である。やはり一番苦しいのは、才能がなくてやりたい人だろう。なにせ彼はやりたいのである。しかし、やったところで、大したことはできないし、大したものは作れないし、もちろん誰かに評価されるわけでもない。才能がないからね。あなたなら彼に、なんて声をかけるだろう。どうしたらいいと、アドバイスするだろう。なにせ彼はやりたいのである。「やりたいなら、勝手にやってれば?」そのうち彼は死ぬ。

こんなの全部冗談だけど、しっかし、みんなは僕の文章が苦労なく読めてうらやましいなあ。待ってれば更新されるだなんて。僕も……あ、ごめん、この先「僕も僕の文章が読みたいけど、でも、僕が僕の文章を読むためには、僕が頑張って書かなきゃいけないんだ」って書くつもりだったんだけど、うん、そんなに読みたくないかもしれない(笑)。自分で面白く思えないんじゃあ、そりゃあアクセス数も増えませんわ。でもあれよ、「僕が書く文章は世界を良くすることに資するものになっているだろうか」とか、そういうことは考えているのよ。仕事でも考えて書いてる。つまり、頭がおかしい人なんだけど、これがマジなんだな。っふふ。

さて、「つまらない企みをする才能がないのにやりたがる頭のおかしい人」という、アレさが満貫はありそうな僕が、僕のブログがどうなっていくのか。少しは面白くなるという事態が、果たして訪れるのか……刮目せよ!

ブログ「いらけれ」

僕たちには知らなくていいことがある。今の僕たちは、知らなくていいことまで、あまりに知りすぎている。とはいえ、知るべきことだけ知るなんて無理だし、知らなくていいことを知らないふりできるかといったら、そういうわけでもない。知ってしまったら、知ってしまったように生きるしかない。しかし、本当に知るべきことは、本当に知りづらいところにあるものだね。

「倉本聰の偉大さについて——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」17」
ライターにとって、怖いコラムだった。確かに、カルチャーを扱うサイト(アレやアレ)のインタビュー記事って、今大体こういう感じだよね。文体は、無意識のレベルで作られているという面があり、それが恐ろしいわけで。
しかし、多くの人がアレを読みやすいと思っているとしたら、PVが伸びるだろうし、むしろああやって書くだろうというのも想像できる。これは難しい問題だなって思ったり。
とにかく、金もらって物を書く人は、内容よりもまず文章に対して特別な気づかいをしなければならない。最低限。その先ってなると、また違うものが問われるってことで。(全部わざとだよ)

『ぐっとくる題名』を読み終えたので、図書館で返却。次はなに借りようかとふらふらしていたら、大澤真幸の『可能なる革命』を手にとってしまう。"しまう"って書いたのは、大澤真幸の本なんて何度も読んでいるわけで、「知っている著者の本を借りない」という自分ルールに反しているからだ。でも、読んでみたかったんだもの。それで、時間的に厳しいし、だいぶ負担になるけれど、二冊借りることにした。社会学の棚で目に留まったのはジュリア・カジェ『なぜネット社会ほど権力の暴走を招くのか』で、それにした。書名が興味の中心に近いというのが大きな理由で、著者プロフィールに「夫は『21世紀の資本』著者トマ・ピケティ氏。」ってあったから借りたわけではない。でも、それはそれで後押しにはなった。読み終えられるかな、まあ無理なら人生で初めて延長すればいいか。


洪申豪 – Morning / 吠吠狼TV

自分のブログを見返すことも、一度聞いた曲をもう一度聞くこともあって、それで、僕にとって大事なものが、他の人にとってはそうではないかもしれないことが、鮮烈に分かった瞬間があったんだ。
僕がこうして"かろうじて"生きていること、この今にいることを可能にした宝物だって、誰かにとっては道端の石と変わらないのかもしれない。でも、それはそれでいい、それはそれでいいだろう。誰かの宝物だって、僕にとっては道端の石だ。
ただ、それが僕の中で、とっても大事であることを尊重してほしい。大事だと思っているものをではない、大事だと思っていることをだ。その思いをだ。それはもちろん、誰かが何かを大事だと思っていることを、僕は尊重しようと思うという、そういうことでもある。
お互い大事なものを抱えて、そして、お互い大事にしているものがあることを尊重しあうなんて、なんと素晴らしいことだろうか。僕たちの間に、それが実現したとしたら、どれだけ素晴らしい世界になるだろうか。これが、僕の理想。

ブログ「いらけれ」

「2018/09/03 今日のボイスメモ」
私のやっているポッドキャストが更新されました。
なんかノイズが入っているのは、マイクをポケットに入れたまま洗濯してしまったため、壊れていたからだと思われます。あと、アドレスに日本語が入るようになってますけど、配信に使っている「Seriously Simple Podcasting」というWordpressのプラグインの仕様変更によるものかと思います。変更できませんでした。
そんで内容ですけど、なかなか難しいですね、話すというのは。どうやったら面白くなるのか、真剣に考えなければ。次回はもうちょっと頑張ります(って毎回言っている気がする)。

西友で2000円という破格の安さに、くだらない靴を買ってしまう。あまりに古い靴を履いていたから、買いたいなとは思っていたんだけど、あれは好きな靴じゃなくて、特別安い靴だ。やっぱさ、好きなもの身につけていたいよな、誰に何言われても。そういうところから、日々のメンタルコントロールって始まると思うの。だからさ、もう少しちゃんと稼いだら、好きな靴買おうと思う。

千葉雅也さんのツイッター面白くて好きなんだけど、見てると、仕事に使っているアプリ?サービス?が勝手に仕様変更して困っているというつぶやきをよくしている。これってインターネット以降の出来事で、それこそツイッターとかもアップデートで勝手に変わって、タイムラインに人のいいね(前はお気に入りって名前だったね)が流れるようになったりするわけだ。手に入れてさえしまえば、自分で好きにいじって、自分の世界を作れていた。例えば、本に赤ペンで書き込んだら、それは独りでに青色に変わったりしないけど、ネットサービスやアプリにはそれがあり得て、なんかすごいなって思う。「自分が完璧に整えた設定が、外側の手によって勝手に変わる」って、とても哲学的な何かなのではないだろうか。

スマホでラジオを聞く、スマホのイヤホンジャックが壊れている人に語りかけたい。僕も、だいぶ前からアレが壊れていて、左耳のイヤホンから音出ないし、ラジオクラウド(ラジオクラウ怒!)っつうのがあるから、普通の音楽プレイヤーを買うわけにはいかない(聞けないからね怒!)。iPodは高い。買い替えても、どうせまた壊れそう。二台持ち?とかも考えたけど……電話もカメラも使わないスマホを買うのも違う気がする。そこで!!Bluetoothのイヤホンが急上昇するわけです、主に僕の中で。Bluetoothのイヤホンなら、イヤホンジャックいらないからね!このその手があったか感。しかーし、Bluetoothイヤホンってどんなもんなんですか?実際使えるもんなんですか?通信が切れたりしない?などなど、そのあたりは……知らない。各々で……調べて。


洪申豪 – Morning / 吠吠狼TV

僕の中で、洪申豪が特別すぎる気もするけど、本当に良い曲だなあ。訳詞もいいんですよね、これがまた。ちなみに、このブログ記事のタイトルと、「憂鬱を追い払う事はできない」は、訳詞からいただいています。拝借してばかりでは申し訳ないし、あと純粋に欲しいから『bored』買おう。

ブログ「いらけれ」

今というのは、ないがしろだ。いつも、過去のことを思い出している。楽しかった記憶を反芻し「あの頃はよかった……」と思ったり、「あの時ああしていれば……」と後悔したりしている。あるいはいつも、未来のことを考えている。1年先、10年先、50年先の自分や世界を考えて、憂鬱になったり、不安になったりしている。
でも、そんな人ばかりじゃない?ほとんどの人間は、現在に居ながらにして、過去か未来に引っ張られながら生きている。それも、良くないことだと分かりながらね。とはいえ、過去も未来もなければ、今が味気ないものになってしまうのは確かだし、それらがないものは人生と言えない。だから時々、我に返るように今に返って、今を確かめるように生きるのが、そういうのが大事だなって思う。しかし、人間に今しかなかったら、つまり過去の記憶や未来の予測がなかったらと、そんなことを考えてみるのも楽しい。

2018/08/26「そのコトにプレミアム料金を払いますか? 〜課金化する社会のゆくえ」
なんか先月のLifeは面白かった気がする。僕みたいな貧乏でも、Apple Musicに加入していたり、高い携帯料金を払ったりしているからだろうか。あと、西武新宿駅から帰るときに、「拝島ライナー」なる指定席の電車をうらやましく眺めているからだろうか。あの一本を、普通のものに変えてくれれば、僕の乗る駄電車がもう少し空くかもしれないなんて、思っているだろうか。
自分の「ホルモン分泌」にお金を払う、なんなら限界ギリギリまで「浪費する」のはいいとして、しかしそれを提供してくれるシステムが、僕たちを本当に幸福にしているのだろうか、「デザインされた依存症患者」になってはいないだろうか、という問題。とにかく社会やお金にまつわる環境がドラスティックに変わっているから、そこに対するとまどいが出てきているという、そういう時代なのだなあ。

とりあえず一か月は働けた。いろんなことはあったけど、一か月という単位が感慨深いぜ。一年以上働いていなかったのだから、まずは上出来だ。先のことはさっぱり分からないが、もう少しは生きられるだろう。

先日買ったプランターズのミックスナッツがマジでうまい。一口目はしょっぱく感じたんだけど、食べていくうちにちょうどいいというか、もう止まらなくなる。見たことないようなナッツが入ってて、それを途中で挟めるのも飽きないし。つまりずっと食べちゃう。まるで中毒者。食べ過ぎるのでダイエットにはならなそうだけど。
一緒に買ったカルーアが甘い。甘くて飲みやすい。カルーアミルクももちろん美味しいんだけど、サイダーとか、コーラに少し入れて飲むのもいい。飲み過ぎるので太りそうだけど。
つまりですね、このブログに書かれている「なんか良いこと風な文章」も、ナッツをポリポリ食べながら、カルーアを飲んでいる人が書いているんだと、そう思いながら読むと感じ方変わりませんか?ということです。