ブログ「いらけれ」

仕事帰りから、午前中までやる気がでず、ぼんやり過ごしてしまった。やはり仕事は辛すぎる。「働くこと」そのものが合わない人は、この社会では生きていてはいけないのだろうか?誰かからフックアップされる夢想をしているうちはダメで、自分で切り拓いていかなければならないのは分かるのだが、そんなエネルギーは僕にはない。横になりながらツイッターをしていたら、「そ、そうだったのかあ……そうだったのかあ!」という事実が発覚した。すごい人間同士の星座のつながりを知った。あの人があの人だなんて。そのことに誰も言及していないのは、無粋だからなのかな。しかし、この驚きは、誰にも正確に伝わらない(なぜなら僕を中心に起こったことだから)のが残念である。共有できないの辛いなあ、うぐぐぐぐ。

例えとして、よく「一流打者でも三割、七割は失敗するのだから」って言う。すでに誰もが使える言い習わしみたいになってる。でも、サッカーのストライカーのシュート決定率は一流の選手でも、三割より低いし(「プレミアリーグ、今季の「シュート決定率」TOP20」)。将棋の棋士は、六割五分以上勝たないと一流とはいえないし。医師は一流じゃなくても十割に近い成功確率を求められるし。だから何だというわけではない。

Bluetoothのイヤホンを、結局買ってしまった僕ですが(4割引のクーポンを使ってSoundPEATSのQ35PROが約2500円)(今届きまして、とりあえず使えることは分かりました。使い心地まではまだ分かりませんが)、結局「YesAsia.com」で洪申豪「bored」と透明雜誌「我們的靈魂樂」(合わせて買うと送料無料になるから……約4500円)を注文してしまいました。この浪費癖、僕はバカなんじゃないだろうか。大して稼いでないのに!しかし、ステータスが「入荷待ち」になってるの、怖すぎるなあ。ちゃんと届くのでしょうか……(ブログって、こういう普通のこと書いていいって聞いたんですけど……大丈夫ですよね?)。

検索から流入してくる人が減って、アクセス数が少なくなっている。でも、それはあまり気にならない。ツイッターから見てくれている方がいるというのも確かにあるが、毎日書いている文章が、自分が見たもの、感じたことを正直に書けているという実感があるからというのも大きい。
正直ということを考える。ここには事実ではないことも(これは一つの小説だから)ある。でも、自分の倫理に誠実に書いている。そういう嘘をつかない、ためにならないフィクションを書かないということが、精神衛生にとてもいい。お金をもらったら、事実を書いていても、倫理に誠実じゃないことがある。それが現実だと言って、自分を免罪している。
何を書いてもいいとは思えない。文章を良いことに使いたい(大切なことは、繰り返し書かなければならない)。そのために、現状を変えていかなければならない。