ブログ「いらけれ」

ヘイトで金稼ぐことに文句を言う人も、低賃金のバイトが働くコンビニを使って何も思わない。僕は、話題になっていることに対して、誰もが納得するステートメントをSNSで出すことが、小説を売る営業になっているような人々を見ながら、小説が世界を作ることを信じる小説家ならば、その敗北を認めて、世界を変える小説を書かなければならないだろうと思う。

またポッドキャスト収録に失敗してしまった。陽気が落ち着いてきたからだろうか、公園を使う人も増えてきたようだ。「増えてきたようだ」ってそんな鷹揚に構えている場合ではない。このままでは収録できなくなってしまう。とにかく場所、次に時間を確保しなければならない。
追記:「2018/09/19 今日のボイスメモ」
更新されました。この日もお婆さんとの睨み合いに勝って。なんだか最初は声が出なくて、声が出ないのはなぜか分からなくて、人体の神秘を実感しながら、しゃべっていたら声が出てきた。声が出てきたら、内容が非常に真面目になってしまった。僕はたしかに人でなしだけど、人倫にもとることはしたくないってことだけなんだ。人としての品性を。

話題の「N’s style」を見ていたら(中村ノリさん、子ども教えるの上手いなあ。)、野球の理論を教える動画を漁りたくなってしまい、結果午前4時になっていた。こういうの大好き、昔から。小学生くらいのころに「NANDA!?」の本買ったくらいだからね(まだ家にあるし)。打撃理論も新しいのが出てきているんだなあ(カウンタースイングなど)。でも、理論を勉強しても、自分の野球が上手くならないのは、一時期研究していたゴルフで承知している。ゴルフのスイング理論の百花繚乱ぶりはすごいよ。でも、どれを試しても、空振していたしね。だから、自分が上手くなるというより、見る側として理解を深めるために、いや、そんな殊勝な考えではなくて、ただただ知的好奇心としてプロの語る極意を知りたいのかもしれないが、とにかく見てしまうのだよなあ。

人生の恐ろしさを知った日だった。これから大切なことを言おうと思っていたけど、思いつく前に忘れてしまった。この先とても大事な瞬間があったはずだったのに、経験する前に可能性がなくなった。


洪申豪 – Morning / 吠吠狼TV

昨日書いた通り、自分のしていることに悩んでいる。この曲が、今の自分に重要なのは「もし変える勇気があれば 今日はその日になる」と言っているからなのだろうか。勇気があれば変わると信じられれば、勇気を持つことだってできるかもしれない。勇気を持たなければ、生きている意味なんてない。

ブログ「いらけれ」

アクセスが完全にゼロになったらやめようと思っているんで、この醜態は、あなたのせいだとも言えるね。あなたは共犯だ。

いつも聞いているラジオに、この前取材させてもらった人がゲスト出演していて震える。あの人を介せば、あの番組とつながり、その番組のPは、僕の好きな別の番組も担当しているから……などという考えが脳内に一瞬で浮かび、なんか色んなものがつながった気がした。

僕は、新潮社出版部文芸のツイッターアカウントの側ではなくて、新潮45の側の人間なのではないだろうかと、そういう風に思ってしまった。ある差別にコミットすれば、少額でも確実に儲かると分かっていて、それをやめられるほど強い人間ばかりだろうか。ある差別を依頼されて、断れるほど勇気のある人間ばかりだろうか。みんなは強くて勇気のある人間かもしれないけれど、僕はダメだった。

時々思い出すこと。ヤクルトスワローズの山田選手が、まだ一軍で出場し始めた頃の話。ある日、ツイッター検索でスワローズの話題を追っていたら、スワローズファンを自称する知らない人が「山田みたいなセンスのない選手を使うなんて小川(※注 当時の監督)は見る目がない」と書いていた。もちろん僕は「はぁ!?(怒)」って感じだったわけです、ドラフト一位に何言っとんじゃと。お前に野球センスの何が分かるんじゃと。山田選手のその後の大活躍はご存知の通り(2年連続トリプルスリーなど)。それで、時々この書き込みを思い出しては、「あの人どうしてんだろうな」って考えたりする。
別に責任を取れとは言わないし、勝手気ままに書けるのがツイッターの良さではある。しかし、あの人はきっと、あの発言を撤回したり反省したり、自分の見る目のなさに愕然としたりすることなく、また同じように選手の誰かを貶しているのだろうし、それを思うと、インターネットの悪いとこってここだよな~、そういうとこだぞっていう気持ちになるんだ。

注文したCDの内一枚が「発送準備中」とステータスが変わっていて、これ届くやつだなって思って、本当にただの日常、それも「入荷待ち」から変化しただけだけど、このあまりに小さな出来事に心底感動していることに感動した。好きなものがあって、自分が存在していて、好きなものを手にしてという、それこそがすべてだ。

少し真面目に、自分の身の振り方を考えなければならないし、まずハンナ・アーレントを読まなければという気になった。こんな気持ちになるなんて、これを書き始める前には思っていなかったことだ。自分の心に驚いている。しかし、倫理的に振る舞うことのできない者の書いた文章など、読む価値はびた一文もないのだから。

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労働が、嫌でござる、嫌でござると働いている。本を読むのは、(予想外の発見とかあるし)基本的にはいいことなのだけど、『可能なる革命』に出てきたバートルビーを思い出して、「その仕事は、私がしないほうがいいかと思います」と言ってやろうかと考えている僕には、逆効果だったのかもしれない。ダメだ、職場で『現代日本の批評』を読んでも、この嫌悪は解消されなかった。なによりもまず、休憩して本を読むくらいなら、早く終えて早く帰ろうと思ってしまう。本を持っていくのはやめにしよう、重いし。

資本主義という宗教において、労働が信仰と同じだとして、資本主義という宗教が、他の宗教、例えばキリスト教と違うのは、救済が毎月来ることだろう。給料日という名の。あるいは、いずれまとまった給料が払われると知りながら、この一時間がいくらになるか、時給を思い浮かべながら働いているとき、そこではすでに信仰と救済が同時に行われているのかもしれない。いずれにしても資本主義は、信仰すれば金という救済の訪れる宗教なのではないかと、雀の涙ほどの金額が振り込まれた通帳を見ながら思った。

ヤフーのニュースでネタバレしてしまったんだが、「ヘル・イン・ア・セル」のシナリオを考えたん誰やねん。めっさ腹立つわ~。ユニバースの大半が「ふざけんな」って思ってるんちゃう?なんかこう、WWEがまた迷走してきている気がするので、早いとこトリプルHさんに頑張ってもらわないと(これはまったくの余談だが、ジャニーズの後継者にタッキーがなるって話を聞いてすぐ、これ、WWEをビンスからトリプルHが引き継ごうとしているのと相似形だよなって思った。パフォーマーが裏方に回るという意味で。誰か指摘してんのかなあ。タッキーが、ジャニーの娘と結婚していれば、完璧に同じなのだがなあ……【トリプルHは、ビンスの娘であるステファニーと結婚しているから】)。

そうそう、給料が振り込まれたんだ、僕の口座に。それを祝して(?)、平成26年以来していなかった通帳記帳をしてみた。ATMの前で二分くらい待たされた。しかも、平成26年の7月から平成27年の8月まで、まとめて記帳されている。なかなか見ない表記だね、あれは。そんなことはどうでもよくって、一年以上ぶりに働いて、一年以上ぶりに支払われた対価に、それを引き出してポケット入れたときに、親に借りていた金を少し上乗せして返せたことに、感じた気持ちを絶対に忘れないでおこうと思った。この高揚感と安堵感と、少しだけ混じる苦みを、いつか小説に書こうと思った。

ミックスナッツカスタマイズにハマっていて、ごま油と大量のコショウをかけたり、それをチンして冷ましたりしているわけだが、当初の目的であった「ご飯の合間に食べることで、空腹を抑えダイエットに」っていうのはどっかにいってしまった。飛んでって多分、今は火星の辺りにいると思う。

ブログ「いらけれ」

大澤真幸『可能なる革命』を読み終える。午前中に。NHK杯を横目に。批評と言うのはなんだか、「牽強付会」なもの(ここでも使いましたね、この言葉)だなあと、「あまちゃん」であるとか、「桐島~」の分析を読みながら思い、オタクに関する言及のところでは、もう笑ってしまった(鉄オタは世界の普遍性を鉄道に見ているのだ!)。終わりの辺り、SEALDsの名前が出てきた辺りからは面白く、読んだ甲斐はあった(結論部分の尻切れトンボ感は拭えないものの)。
とくに印象に残ったのは、ベンヤミンの書いた「宗教としての資本主義」についてのところで、タイトル通り、(一見そうではないように思われているが)資本主義は(極端で絶対的な)宗教であるということを書いているらしいのだが、それはまあいい。詳しく知りたい人は読めばいい。そこの記述への注で、資本主義という宗教について、ベンヤミンが指摘しているという特徴の一つが面白かった。
曰く、宗教は人の罪を浄化するものだが、資本主義はその逆で、人に罪を着せる宗教であり、信仰(資本主義において信仰はイコール労働である)すればするほどに、罪の意識が深まる宗教であるというのだ。これはつまり、ここにある文章を読んでいる人ならば分かることだろうが、僕がずっと考えていることであり、僕がずっと悩んでいることと関わっている(例えば「人間という存在の”無理”」で書いた、資本主義に最適化した1%の、ドナルド・トランプ的開き直り感の根源には、もちろん開き直りというからには、稼ぐという行為に対して「悪いことをしている」という実感があるはずだというのが、あの文書を書いていたときの僕の直感である)。資本主義(という宗教)、労働、罪という見取り図を得て、非常に腑に落ちたとともに、本を読むのはいいなあなんて、ぼんやりしていた。

『現代日本の批評』と、『シャーデンフロイデ』という、どちらもキレイな本を借りる。そこから歩いてダイエーまで行って、トップバリューのミックスナッツを買う(量、質ともにかなり良し)。改装中だった二階にダイソーができている。前の100円ショップより大きい。職場で使うスリッパと、布製品の消臭スプレーを買う(名前「ファブリック」って!)。消臭スプレーがすごいありそうなのに見つからなくて、30分くらい探した。買えたのだから、その時間も無駄ではなかった。帰り道に父親とすれ違っていたらしい。これっぽっちも気付かなかった。

図書館の帰りに、近くの公園でやっている祭りにも立ち寄ってみた。食べ物屋がいっぱい出ていたのだが、それよりもなによりも、東村山市ってこんなに子どもがいるんだってくらいの家族連れ、それもマイルドヤンキー的な人でいっぱいだった(『可能なる革命』的に表記するならば、ここも〈地元〉だったのだ)。そこではっきりと、僕は働きに出かけている都会と同様、この〈地元〉にも疎外されているんだってことに気づいてしまった。居場所ってないんだなって思った。都会-郊外-田舎の、そのどこにも定位できないとすれば、そのどこでも仕事や家族といったものを形成できないとすれば……。