ブログ「いらけれ」

前々日ぐらいに誘われて、立飛へ。まず多摩モノレールに初めて乗った気がする、いや多摩動物公園に行くのに、小学生のころ乗ったことがあるような気もする。イベントとして五行歌を募集していて、センスいいなと思う。立飛は、本当に無秩序な感じというか、思い付きで作っちゃった街という感じで興味深い。前の会社の近くの店に通っていたころは一年以上前だから、結構久しぶりに、ららぽーとの中のフレッシュネスバーガーに行ったら、頼んだバーガーから紐みたいに玉ねぎの皮?が一杯出てきた。味は覚えていない。

会場で売っているわさびチャーハンなど食べずに、コートへ向かう。近いとは聞いていたけど、本当に一番前で驚いた。飛んでくるのではと恐ろしいほどだ。高い席だろうに、タダで見せてもらって申し訳ない。

選手が近くに来ると、その身体的な特徴、大きい小さいや、手の長い短いの違いが目につく。まったく違う条件で戦っていることが分かる。次は、選手の動きに注目する。最近、野球の解説動画ばかり見ているからか、ショットのメカニクスが気になる。かなり身体に近いところで打つんだな。選手によってショットの音が違う。それだけで、おおよそのことが分かってしまうほどだ。サーブを打つ。テレビで見るのとは、さすがに迫力が違うなあ。画面越しでは簡単そうに見えてしまうが、本当にすごい。サーブを受ける側の姿勢が、始めは低く構えて、打たれる瞬間に上体を起こすという一連の流れが興味深い。上→下だとそこで体が固まってしまい、下→上だと動きやすい上に、もう一度下に姿勢を移行しやすいからだろうか。

選手によっては、めちゃくちゃがっかりしたり、怒っていたりする。ボールパーソンに八つ当たりしていたりする。それを間近で見ながら、こんなにがっかりとか憤懣やるかたない姿を、近くで見る機会もないよなと思っていた。プロになるような人は、非常に執念があるような人だから、その姿も当然だと思うと同時に、冷静な選手の方がもっとすごいように感じてしまう。

試合が終わって、モノレールから地元へ帰った。駅の近くで、何度も前を通ったけど入ったことのないインド料理屋に連れてってもらい、ラッシーやら、デカいナンやら、マトンのカレーやらをたらふく食べながら、色んな話をして楽しかった。美味しかったから、あの店にはまた行きたいな。今日一日の貴重な経験に満足して帰って、スポーツニュースを見たら、やっぱりバッチリ自分が写っていた。観客は見ているだけのつもりでも、どこかからは見えていて、見られてもいるのだ。

ブログ「いらけれ」

2018年9月17日放送、TBSラジオ東京ポッド許可局「負の感情論」を聞いた。
『カメラを止めるな!』の盗作騒動について、その告発者の、告発に到った心情を考えるという視点が、さすがに面白いなと思った。「金目当てなんじゃ」というような、ゴシップ的なところまでは思いついたけど、映画の大ヒットを傍目に見ていたときに湧き上がったであろう負の感情までは考えなかったな。(許可局でパクったパクらないという話を聞くと、俺はどうしても「RT師匠問題」を思い出してしまうんだけど、もうみんな覚えていないのだろうか)
中でマキタスポーツが、毎日ブログを書いていたときは「怒りで筆が進んでいた」と発言していたけど(ブログ読んでたなあ)、これは俺もそうで、というか、俺にしたらほとんどの表現者が、怒りを燃料にしているように見える。そんな文章を以前書いた気がするが(「underside」やっぱり書いていた。6月はもう遠い昔だ)。
基本的には、生きているかぎり目に入るすべてに怒りや負の感情を抱いている俺だが、面白いものへ嫉妬するっていう感じはあまりなくて、突き抜けた人に対しては素直に憧れているように思う。すごさを認めて、そうなりたいと思って、じゃあどうするかって手段を考える、という感じだ。ただ、面白くないものを読んだときは、こいつよりは俺が書いた方がいいだろうって、それは思うね。そういう怒りがあるね。
俺が誰にも見られていなくても、フォロワーが少なくても悪口を書かないのは、おそらくそれが人生のテーマだからで(「特別編-対話のボイスメモ#3:ボイスメモを公開する。」「無責任な人がいかに倫理的に振る舞うか」という話をここでもしている)、怒りながら倫理的であろうとし、負の感情を昇華して文章を書こうとしている自分が、今、とてもちょうどいいのではないだろうかと思った。これを続けていく理由になったよ。

ちまちま歩いている。仕事を始めてから減ってしまったんだけど、痩せるために。今日も、なんとか歩数を稼ごうと歩いていたら、路地の先が少し開けて公園で、また路地になるという場所で、子どもたちが鬼ごっこをしていた。その間を抜けながら、子どものころは本当にたくさん歩いて、そして走っていたなって思ったんだ。体育の前にペケポンして、放課後にいろ鬼するみたいな、今なら無理なハードスケジュールでさ。あのエネルギーがあれば、子どもの頃のように僕の中にあれば、僕は大人の社会で、一角の人物になることもできるだろう。

「せめて、やる気を見せろ」
負けたチームの選手だけは、プレーしているときに必死な感じを出すことを求められる。勝った側がへらへらしていても何も言われないのに。そもそも、お前が勝手に応援しているというのに。お前に応援してくれとは頼んでいないのに。負けた方だって必死にやっているかもしれないのに。そういう考え方を自分だってしてしまいがちだ。誰も幸せにしない言葉を侵入させないように、細心の注意を払う必要がある。

ブログ「いらけれ」

いくらでも書けるという気になっている。昨日だって1000文字を30分で書けたからな、はっはっは。だが、こんなことを続けていたら、いつか呆れられてしまうのではないだろうか。もしくは、もうすでに。とはいえ表現とは、つねに呆れられてしまうようなものである。呆れられてしまうようなことをしない人は芸術家とは呼べない。僕は芸術家ではないけど。いや、芸術家か?今からでも芸術家と名乗るべきなのか?ツイッターのプロフィールに追記しておくべきか?というか、なぜ最近ツイッターのプロフィールを変えたのか?
「試用期間で仕事をクビにならなかったので、まだ続けるだろう。だから、一応ライターって肩書きを名乗ってもいいかな。あと、この前のブログをきっかけに久しぶりに読んだ「裏2017年」が、やはり何度自分で読み返してみても面白いとしか思えないという"うぬぼれ"もあるし、批評家は自称しておこう。あと、読まれて問題があるようなことは大して書いてないが、現実世界でつながりのある人に詰問されても困るから、架空の存在ということにしておこう(あと、「頭痛派後藤」という名前にして、これはオルターエゴということにしておこう)」
……という心の動きがあったため、プロフィール文を変えました。でも、僕は僕なので、肩書が変わったからといって、面白くなったりはしません。そんな僕を、これからもよろしくお願いします。

明日職場で食べるパンを買いに業務スーパーへ行ったら、マンゴープリンが紙パックで売っていた。レアチーズケーキや杏仁豆腐も売っていた。7~8人分で250円が安いのか高いのか分からない。買って、家でパックを開いて、ふるふると皿に出して、味はおいしかったのだけれど、大きい皿だったから、おそらく一人前の量はあったのに、少し物足りなさを感じた。

ソースの時代だ。みんなが口々に「ソースだせ」って言っていた意味が分かった。何を情報源としているかによって、その人間の思想が決定されてしまう。全面的に信頼できる発信者などいないことが明らかになった現代では、情報を信じることが主体の判断に任されてしまう。今の時代、従来の権威はバカにされてもいて、学問に対する「とりあえずこれを信じればいい」という当たり前の態度が、足元から切り崩されてしまっている。自分の信じたい何かに不都合な情報は、すべて陰謀論だと脳内で処理できてしまう人々に対して、何が言えるのか。彼らを変えることが、はたして本当にできるのだろうか。
とにかく「思ったこと」を書けと、環境が命令してくるインターネットでは主観が前面化する。しかし、インターネットで主観が前面化しているのは自分だけではなく、自分とは全く違う主観の存在を常に意識させられる。だからインターネットの書き込みは、ものすごく他人を意識した、他人からどう見られているかに気を使いすぎている主観になる。つまり、書かれた言葉は(空想上の他者なのだが)一度他者を通ったものとなり、自分の主観は他者に認証されたものとして、正当性を過剰に見出してしまう。自分の意見は完全に正しいものだと思い込めてしまう人々に対して、何が言えるのか。彼らが変わることが、はたして本当にできるのだろうか。

ブログ「いらけれ」

とある事情により、今日は短いブログですが、とある事情も何もなく、これから先も短いブログにしていこうと思う。だって、頑張ると虚しくなるし。これは本当に真理だ。努力の投入量、思考にかけた時間、指先を動かした数と、アクセス数があまりにも釣り合わない時、もうやめようって思う。だから、毎日やめようと思ってるってことだけど、やめてしまったら、もう二度と始まらない気がして続けている。これまでの人生で、やめてしまったことに対する後悔もあるし。新宿でストリートライブをしてる人を見ながら、今の時代、YouTubeでやる方が手っ取り早そうなのにと思ったり、もうすでにそっちもやってたりするのかなと思ったりするんだけど、とにかく、道端で立って歌うように、コツコツと書いていく。これが仕事になるとも、生きがいになるとも思わないけれど、いつかコレが、何らかの形で役に立つ日が来る気がしている。そういう偶然や、運命や、まだ見ぬ誰かや、未来の自分という他者のために、僕はやめるわけにはいかない。

家を出て歩いて、歩いて電車に乗って、窓の外を見て、落ち着いて、乗り換えのために歩いて、乗り換えて、職場の最寄りの駅に到着する。Bluetoothのイヤホンをしている。ホームの階段を下りて、改札へ向かっている。その途中のエレベーターの近くの、何の変哲もないあるポイントで、必ずと言っていいほど、Bluetoothのイヤホンの電波が途切れる。ラジオクラウドで、セッション22で、ゲストの柴崎友香の話を聞いていたのに。聞きながら、僕は、やっぱり小説を書こう、それはただ、それをしたいということのためにと思っていたのに。何が原因なのだろうか。想像も及ばないが。毒電波でも出ているのだろうか。毒電波ってなんですか?

将来のことを考えると(あるいは頑張っている同世代のことを)、とても悲しい。親の介護とか自分の結婚とか自分の老後が、脅しをかけてくる。きっとここに勘所があり、非正規の苦しみがある。はっきりと、望むことや安心すること、ただそれだけのことから疎外されている。皆、大企業に勤めていたらとか、時代が違えばと思うのだろう(もっとも、例えば私が、昭和に働き盛りを生きていたら、もっと苦しかっただろうという、それくらいの自覚はある。"アウトサイダー"が生きやすくなっていることは確かだから)。得られないものを望んでも仕方がないと分かって、それで頭を下げて生きていくこともできる。また、社会に対し意義を唱えて、社会運動をすることもできる。放棄も蜂起も、私たちの手の中にはあって、だからとにかく、幸福を諦めることだけはしてはいけないと思った。