2018年9月17日放送、TBSラジオ東京ポッド許可局「負の感情論」を聞いた。
『カメラを止めるな!』の盗作騒動について、その告発者の、告発に到った心情を考えるという視点が、さすがに面白いなと思った。「金目当てなんじゃ」というような、ゴシップ的なところまでは思いついたけど、映画の大ヒットを傍目に見ていたときに湧き上がったであろう負の感情までは考えなかったな。(許可局でパクったパクらないという話を聞くと、俺はどうしても「RT師匠問題」を思い出してしまうんだけど、もうみんな覚えていないのだろうか)
中でマキタスポーツが、毎日ブログを書いていたときは「怒りで筆が進んでいた」と発言していたけど(ブログ読んでたなあ)、これは俺もそうで、というか、俺にしたらほとんどの表現者が、怒りを燃料にしているように見える。そんな文章を以前書いた気がするが(「underside」やっぱり書いていた。6月はもう遠い昔だ)。
基本的には、生きているかぎり目に入るすべてに怒りや負の感情を抱いている俺だが、面白いものへ嫉妬するっていう感じはあまりなくて、突き抜けた人に対しては素直に憧れているように思う。すごさを認めて、そうなりたいと思って、じゃあどうするかって手段を考える、という感じだ。ただ、面白くないものを読んだときは、こいつよりは俺が書いた方がいいだろうって、それは思うね。そういう怒りがあるね。
俺が誰にも見られていなくても、フォロワーが少なくても悪口を書かないのは、おそらくそれが人生のテーマだからで(「特別編-対話のボイスメモ#3:ボイスメモを公開する。」「無責任な人がいかに倫理的に振る舞うか」という話をここでもしている)、怒りながら倫理的であろうとし、負の感情を昇華して文章を書こうとしている自分が、今、とてもちょうどいいのではないだろうかと思った。これを続けていく理由になったよ。
ちまちま歩いている。仕事を始めてから減ってしまったんだけど、痩せるために。今日も、なんとか歩数を稼ごうと歩いていたら、路地の先が少し開けて公園で、また路地になるという場所で、子どもたちが鬼ごっこをしていた。その間を抜けながら、子どものころは本当にたくさん歩いて、そして走っていたなって思ったんだ。体育の前にペケポンして、放課後にいろ鬼するみたいな、今なら無理なハードスケジュールでさ。あのエネルギーがあれば、子どもの頃のように僕の中にあれば、僕は大人の社会で、一角の人物になることもできるだろう。
「せめて、やる気を見せろ」
負けたチームの選手だけは、プレーしているときに必死な感じを出すことを求められる。勝った側がへらへらしていても何も言われないのに。そもそも、お前が勝手に応援しているというのに。お前に応援してくれとは頼んでいないのに。負けた方だって必死にやっているかもしれないのに。そういう考え方を自分だってしてしまいがちだ。誰も幸せにしない言葉を侵入させないように、細心の注意を払う必要がある。