革命と未来のない世界

ブログ「いらけれ」

大澤真幸『可能なる革命』を読み終える。午前中に。NHK杯を横目に。批評と言うのはなんだか、「牽強付会」なもの(ここでも使いましたね、この言葉)だなあと、「あまちゃん」であるとか、「桐島~」の分析を読みながら思い、オタクに関する言及のところでは、もう笑ってしまった(鉄オタは世界の普遍性を鉄道に見ているのだ!)。終わりの辺り、SEALDsの名前が出てきた辺りからは面白く、読んだ甲斐はあった(結論部分の尻切れトンボ感は拭えないものの)。
とくに印象に残ったのは、ベンヤミンの書いた「宗教としての資本主義」についてのところで、タイトル通り、(一見そうではないように思われているが)資本主義は(極端で絶対的な)宗教であるということを書いているらしいのだが、それはまあいい。詳しく知りたい人は読めばいい。そこの記述への注で、資本主義という宗教について、ベンヤミンが指摘しているという特徴の一つが面白かった。
曰く、宗教は人の罪を浄化するものだが、資本主義はその逆で、人に罪を着せる宗教であり、信仰(資本主義において信仰はイコール労働である)すればするほどに、罪の意識が深まる宗教であるというのだ。これはつまり、ここにある文章を読んでいる人ならば分かることだろうが、僕がずっと考えていることであり、僕がずっと悩んでいることと関わっている(例えば「人間という存在の”無理”」で書いた、資本主義に最適化した1%の、ドナルド・トランプ的開き直り感の根源には、もちろん開き直りというからには、稼ぐという行為に対して「悪いことをしている」という実感があるはずだというのが、あの文書を書いていたときの僕の直感である)。資本主義(という宗教)、労働、罪という見取り図を得て、非常に腑に落ちたとともに、本を読むのはいいなあなんて、ぼんやりしていた。

『現代日本の批評』と、『シャーデンフロイデ』という、どちらもキレイな本を借りる。そこから歩いてダイエーまで行って、トップバリューのミックスナッツを買う(量、質ともにかなり良し)。改装中だった二階にダイソーができている。前の100円ショップより大きい。職場で使うスリッパと、布製品の消臭スプレーを買う(名前「ファブリック」って!)。消臭スプレーがすごいありそうなのに見つからなくて、30分くらい探した。買えたのだから、その時間も無駄ではなかった。帰り道に父親とすれ違っていたらしい。これっぽっちも気付かなかった。

図書館の帰りに、近くの公園でやっている祭りにも立ち寄ってみた。食べ物屋がいっぱい出ていたのだが、それよりもなによりも、東村山市ってこんなに子どもがいるんだってくらいの家族連れ、それもマイルドヤンキー的な人でいっぱいだった(『可能なる革命』的に表記するならば、ここも〈地元〉だったのだ)。そこではっきりと、僕は働きに出かけている都会と同様、この〈地元〉にも疎外されているんだってことに気づいてしまった。居場所ってないんだなって思った。都会-郊外-田舎の、そのどこにも定位できないとすれば、そのどこでも仕事や家族といったものを形成できないとすれば……。

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Posted by 後藤