人間という存在の”無理”

コラム「後藤の超批評」

暗い洞窟を進んだその奥に、沢山の蝋燭の炎が並んで煌めいている。……この光景を直ぐに思い浮かべられた方は、落語好きかもしれない。これは、有名な「死神」という演目のワンシーンだからだ。この噺の中では、蝋燭の長さとその火の勢いは、この世に生きる人の寿命の長さを表しているが、私は、確かに命とは蝋燭の炎みたいなものかもしれないと思った。

運命と偶然の衝突、その火花でついた蝋燭は、風や雨によって消えたり、誰かに「ふっ」っと吹き消されなかった幸運と、そもそも短い蝋燭ではなかったという幸運によって、辛うじて燃え続けている。
「死神」では、ある悪巧みを働いた者が、その報いを受けるのだが、しかし人生の実情は、因果関係や日頃の行いと関係なく死ぬ。良いことをしているから、良いことが起きる/良いところへ行けるというのは、私に言わせれば、すべて宗教であって、その意味で、自己啓発も"手帳術"もそうだと言える。あなたが生きる時代に、人間が恐竜のように隕石で絶滅していないのは、ただ単に今のところ幸運だったというだけだし、戦争も交通事故も人殺しに出会わなかったのも、多くの場合そうだ。つまり、運命と偶然の火花によってついた炎は、運命と偶然が混ざり固まった蝋燭の上で燃えている、という訳だ。

殺人や事故、病気、天災などで、不条理に人が死ぬニュースを聞くとき(もうそんな機会は多すぎて何も感じないことにしているだろうが)、必ずあなたの中に、かすかかもしれないが残る「なぜ私ではなく、その人なのだろう」という感覚について、私はよく考える。考えるが、よく分からない。その感覚について、どう捉えるべきか、どう処理すべきか、答えることが出来ない。あなたではなく、その人だった理由は無い。
そう、大概のことには理由がないのである。親も選べなければ、生まれる社会も選べないのだから。あなたが、親にも社会にも殺されなかったのは、やはりただの幸運だ……そして、それをあなたは自覚しているはずだ。あなたは、あなたより相対的に不幸にみえる"他者"の存在に、その目に、絶えずさらされているのだ。
あなたが、あなたより相対的に不幸にみえる"他者"の目にさらされながら、取れる態度はおそらく三つ。一つ目は、私財を投げ打ったり、支援を仕事にするなどして、徹底的に"他者"のためにつくす(マザーテレサ?)。二つ目は反対に、そういった"他者"は完全に考えないこととして、自分の幸福の追求のみを良しとする(ドナルド・トランプ?)。三つめは、"他者"の存在に時々心を痛めながら、たまの募金で満足を買う(善良な市民のふり?)。身を捧げる、見て見ぬふりをする、ズルをするのどれかといったところか。
世界の裏側の不幸まで引き受けようとする一つ目の態度も、あらゆる不幸を引き受けないこととする二つ目の態度も、多くの人は取れない(だから、限られた人だけがノーベル平和賞を受賞でき、資本主義へ最適化し99%ではなく1%になることができるのだ)。"他者"に対して、生煮えの態度を取るあなたは、だから、"他者"への、そしてそれを適度に無視する自分自身への後ろめたさから逃れられることができない。"他者"は、あなたが幸福になればなるほど増える。その見つめる目が増えていく。それはあなたを苦しめ、苛むだろう。そう、あなたが幸福を目指すことには、根本的な困難があり、だからあなたは幸福になれないのである。

幸福に関するこうした困難、あるいは呪いについて、しかし、それでもあなたが幸福を目指すことが赦されるのは、あなたがいずれ死ぬからだ。どう生きようといずれ死ぬあなたが、生きている間にできることはあまりに少ない。だから先ずは、あなたがしたいことをしたいようにするべきだ。死んでしまう前に。
しかし、死んでしまうことで私たちが赦されているのならば、なぜ自ずから死ぬことは許されないのだろうか。宗教的倫理観ではない形で否定する根拠はあるか。あるいは、どうせ死んでしまうのに、なぜ快楽に淫してはいけないのだろうか。脳に電極を刺すことで永遠の快楽を得られるとして、それを選ぶべきではないとする根拠はあるか。そもそも、人間という種が生き続けなければならない理由はあるのだろうか。人間が絶滅してはいけないという根拠はあるか。
幸福と自殺と快楽と絶滅によって、人間の、その存在の中心には冷たい風が吹いている。

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Posted by 後藤