裏2017年

コラム「後藤の超批評」,頭痛派

2017年も終わる。もう直ぐ。これを読む貴方にとっての2017年、それはどんな年だっただろうか。貴方に起こった良いこと、悪いことを思い出しながら読んでほしい。とにかく貴方は(僕も!)生きのびた、生きのばしたと言った方がいいか。そのことを、まずは祝福しよう。

僕はといえば、いつも"一年"なんていう単位を意識しないで生きている。必要ないから。ニートには仕事納めも、仕事始めも関係ないのだ。しかし、そんな僕でも、年末になると感傷的になってしまう。もう2017年も終わりかあ、という感慨を抱きながら火を付けて、ベランダで吸う二本目のことを想像する。タバコなんて一度も吸ったことがないから、口元が温かいのかどうかすら分からないけれど。きっと、ベランダ用のサンダルを、裸足でつっかける足元はとても冷たいだろう。水をあげてないのに元気なサボテンと、昔は何かが植わっていたけど、今は土だけの植木鉢があり、周りは寝静まっていて、つん、とした空気だ。月だけが僕を見ている。八割方電気の消えたマンションの窓の明かりが、さしずめ何かの暗号のようだと、月は思った。
そこに立っている僕は、最近とみに胃が痛いというか、吐き気を催してえずいている。おそらく師走、そしてイルミネーション、クリスマス、年の瀬(芝浜、第九)と、こちらに関係なく、とても力強く進んでいく時間が、焦りを生じさせるからだろう。僕は、焦りを食う虫のことを考える。焦りを食う虫がいたらなあ。そうしたら、焦らずゆっくり死ぬだろう。そしてそれは、ある意味で幸福なことだろう。しかし、焦りを食う虫も、焦るのだろうか?それとも、自分の焦りも食うのだろうか?
もちろん、この不調の原因について、親に迷惑をかけているからとか、僕も人の子だから思うよ?……でも、全てはしょうがないと思うし、いつかどうにかなるとも思っている。どうにかなっても、どうにもならなくても死ぬ。その事実はとても優しくて、いつでもそう考えれば、そう考えるというのは、死ぬ直前の未来から今を見るということだけど、そうすれば、少しだけ安心だ。でも、安心していてもしょうがない、僕たちは地獄のような惑星に住んでいるのだから。

僕たちを覆っている、戦争が起きて、あるいはテロによって、不条理に死ぬかもしれないという、国際情勢に対する無力感。現実はそれどころか、内政に対する無力感、どころか、日常に対する無力感を感じている僕や貴方が、この世界について考えることができるだろうか。いや、できないだろう、という鮮明な実感で、このまま世界は悪くなる。だって、隣席のアイツさえ変えられないのだから。だから、みんな自分のことしか考えなくなって、ブラック企業というのは、「私は(私だけは!)ブラック企業に入ることを避けたい」という意味にしか捉えられなくなっていく(そういった考え方こそ、「ブラック精神」として糾弾しなければならないと僕は思う)。そして、コスパとライフハック(と自己啓発)だけを信じながら、スマホのフォルダに無数の猫の写真を入れるとか、馬鹿みたいな「まとめ」を見るとかして、サバイブ(余談だが(余談じゃないことなんて一つも書いてないのだが)、ゼロ年代の空気を支配していたのが"サバイブ"という言葉で、これについては一度考えてみてもいいかなと思っている。批評家として)していくのだ、という思想。
ここで、貴方が住んでいる街を思い浮かべて欲しい。ホームレスに対する儀礼的無関心や、グループの内側の人間とは話すけど外側の人間とはなるべく関わらないようにしようという強い力が働いている居酒屋で一杯ではないだろうか?(これも余談だが、近頃の送り手は、自分たちのファン、つまり内側に向けてばかり語りかける傾向にあるように見えてしょうがない。これについても、批評家として考えてみたい)そしてそれは、所与のものとして諦められていて、誰も変えようなんて、これっぽちも思っていないのではないだろうか。
私たちは、なぜこんな未来にいるのだろうか。僕はなぜ知らない人に悪口を言われ、ブロックをしなければならなかったのか。確かにSNSは世界を変えた。でも、僕たちに渡されたのは、見知らぬ誰かと出会う希望ではなく、嫌いな人をブロックする権利だったのかもしれないなんて、そんな風にすら思ってしまう。ここに残るものは、未知との遭遇への期待ではない。20xx年の世紀末的なリアリティなのである。
私たちの生きる、ディスプレイという平面に於いて、個別的な悪を撃とうとする奴は掃いて捨てるほどいる。今日もどこかでバーリトゥードが行われている。確かに奴らは悪事を働いているが、それを暴くツイートを重ねたところで、大した効果は無いのに。そんなことをする暇があるのならば、革命の準備をした方がいいのに。
しかし、どれだけ私的な正しさを押し付けようとする者だって、今の時代、無料で音楽を聞いているし、あるいは、YouTubeでテレビ番組を見ている。正義の徒の、相手を文字通り殺そうとする過剰な攻撃性は、自分も真っ白ではない、という後ろめたさからくるのだろうか。それはあまりに幼稚、あるいは白痴だ。
しかし、阿呆だ、ど阿呆だと言い合っていても、無意味なのである。つまり、感情と理性についての、象と象使いのアナロジーが今だ有効であるならば、奴らは象で、私たちこそが象使いであると喧伝する者こそ、見物する者の象へ訴えかけているのであり、その姿は正しく象なのである(勘の良い方ならお分かりかと思うが、これは「バカっていうやつがバカ」の、小難しい言いかえである)。
SNSは市民が運用する兵器であり、日常的に使用されている兵器であり、市民が犠牲になる兵器である。その銃口は自分に向けられている。世界は、いつでもどこでも内戦状態にあり、内戦状態にあることを理解し、自分だけは上手に乗りこなせるつもりでいる者も、巻き込まれていく仕組みの内戦状態だ。
私たちは壊れている。音声アシスタントやスマートスピーカー、AIに人格を感じ、ペットや恋人のように愛するのに、実際後ろに人間がいるツイッターアカウントには暴言を吐くというように。人を人と思うこと。それこそがおそらく、自分たちの手で分断したがゆえ、分断されてしまった私たちが、和合するための第一歩なのだ。

こうして、頭の中で世界を俯瞰しているつもりの僕も、抗い難い状況の中にいて、もう流れる川に携帯電話を落として、それが笹船のように流れていったとしてそれは、つながりのリセット以上の意味を持ってしまうのだなあ、などと裏路地を歩きながら考えていた。視線を上へ向け、昼間の月を見上げた時に、僕はUFOを見た。冴えわたる青空の中を飛ぶそれは、白く光りながら、大通りの交差点の方へ飛んでいく。飛んでいるのは10メートルほど先だろうか、だから大きさは30センチくらいだろうか。初めはビニール袋かと思ったが、平たい面をこちらに向け、尾翼の役割をしているらしい、しっぽの付いているそれは、風に乗って飛ばされているわけではなくて、真っすぐに、速度を変えずに、自分の意志で飛んでいくように見えて、僕は急に慌ててしまう。それまでポッドキャストを再生していたスマートフォンをカメラモードにして、狙いを定めるも、それは既に遠く小さくなって、一軒家の屋根の向こうに消えていった。みんなビックリしているだろうけど、これは実話で、そのとき撮った動画を載せる。丸の中の、とても小さく、消えたり現れたりする白い物体が、今話したそれだ。

それでは、よいお年を……ってそんな終わり方あるかーい!

3000-コラム「後藤の超批評」,頭痛派

Posted by 後藤