彼によると世界は

ブログ「いらけれ」

このブログをお読みいただければお分かりのように、ここ数日書きたいことがない。書きたいことがないときにはどうするか?「書きたいことがない」と書くのである。これがブログを続けるコツである。しかし、この3日くらい「書きたいことがない」とすら書けなかった。それまでのように、私はブログが書けませんという文章すら書けなかった。それがなぜなのか分かっていなかった。今はおそらく、大きな災害が日本で起きていたことが、その原因の一つだったのだろうと思っている。
七月のある日、折り畳み傘で事足りるような雨に降られたとき、あの映像の大雨や、川の氾濫や、土砂崩れが、たくさんの人が亡くなったということが、本当に分からなくなってしまった。同じように雨と呼ばれるものだからこそ、実感が湧かなかったし、言葉につまった。何だかとても、嫌になってしまった。少しずつの支援しかできないことが辛い。それはでも、一個人にはしょうがないことだと、納得がいかない。納得できなくても、人生は続いていく。そのことも、今やはっきりと嫌だ。
私たちは、地震が神の怒りではなく、プレートのずれなどによって起こることを知っているし、火山の噴火や、大雨が降るメカニズムも知っている。科学によって解剖された世界が、むき出しの不条理に対して言うのは、「こうだからこうである」という説明であって、それは信じられないほどに虚しい。
自然科学では救えないものがあるし、その救えなさをなんとかしようとして、価値の体系を作ってきたのが人間だというのならば、私たちはまた、その体系が生き生きと共有されていた時代を取り戻す必要があるのだろうし、それを心から信じ直す必要があるのだろう。
って、こんなこと書いても、私の気分は沈んだままで、そのことも今、はっきりと嫌だけど、私は勝手に、少し気が楽になってしまっている。これを書いたことによって。

未だかつてないほどの無音の中で、男の登る山は土の、その土の上に落ちている腕時計の、秒針が一つ動くところを見た男は、それは5分前に始まった仮説ではなく、毎秒始まりから終わりまでが、その一瞬のうちに起きていることを知った。しかし、膨大な時間が通り過ぎても、知覚できるのは毎秒のことだけだったし、その毎秒の知覚が連続している、一秒ずつ生きているという虚構の方が、男には重要だった。

「コンピューターは哲学者に勝てない――気鋭の38歳教授が考える「科学主義」の隘路」
もちろん、僕はこれを読んで今日のブログを書いた。どれだけ僕が理解できているのかは置いといて、このインタビューは、とても面白く読んだのは確かなのだが。
このガブリエル氏の分かりやすさ、思想の実相の素直さに対して、面食らう部分もあるし、どうしていいか分からないところもあって、とにかく今度の番組(BS1スペシャル「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く〜」7月15日10時~)は、見れたら見ようと思う。忘れてしまわなければ。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤